第五話:予期せぬ視線、交わる運命の糸口
綾が四つになった年の初夏。
その日、綾はいつものように、母・藤乃に伴われて宮中へ参内していた。父・為時は中務省の重職にあり、藤乃もまた、後宮に仕える女房たちとの付き合いがあった。綾にとって宮中は、華やかではあるが息の詰まる場所だった。きらびやかな衣装を纏った貴族たちが、見えない序列の中で言葉を選び、腹を探り合う。その全てが、綾の目には空虚な遊戯のように映った。
(また同じ話の繰り返し……この儀式に何の意味が……)
儀礼的な挨拶が延々と続く中、綾は退屈を紛らわすように、ぼんやりと庭に目をやった。その時、ふと、これまで感じたことのない、微かで、しかし確かな「違和感」を覚えた。
それは、綾が秘密の書庫で試作している「朧なる守り」――人の意識を逸らす仕掛けが、何者かによって僅かに「揺さぶられた」ような感覚だった。
(まさか……私の仕掛けに気づく者が?)
綾は平静を装いつつ、意識を集中させた。違和感の源泉は、庭の隅、大きな松の木の陰からだった。
そこに立っていたのは、綾より少し年上に見える、十歳前後の少年だった。
狩衣を簡素に着こなし、年の割には落ち着いた雰囲気を漂わせている。彼は、他の子供たちのように庭を走り回るでもなく、ただじっと、何かを探るように周囲を見渡していた。そして、その視線が、時折、綾が隠れ家として使っている屋敷の方角へと向けられていることに、綾は気づいた。
(あの少年……何者だろう? 私の秘密に気づいているわけではあるまいが……)
綾は、これまでにない緊張感を覚えた。自分の「異常」を隠し通すことが最優先事項である綾にとって、他者の鋭い視線は脅威でしかなかった。
その少年は、安倍晴明という名で、天文博士の家系に連なる子供だった。まだ元服前ではあったが、その才覚は早くから周囲に認められ、時折、父に従って宮中に顔を出すことがあった。
晴明は、幼い頃から、他の人間には見えない「気」の流れや、微細な自然の変化を感じ取る鋭敏な感覚を持っていた。それは、まだこの時代には確立されていない「陰陽」の素養とも言えるものだった。
今日、晴明はいつものように父の供をしていたが、ふと、藤原為時の屋敷の方角から、奇妙な「気」の淀みを感じ取ったのだ。それは、何かが意図的に隠されているような、不自然な静けさだった。
(あの屋敷に、何かある……?)
晴明の探究心が疼いた。彼は、その淀みの中心を探ろうと、意識を集中させた。すると、微かではあるが、何者かの「意識」が、自分の探査に応答するかのように揺らぐのを感じた。
綾と晴明の視線が、一瞬だけ、遠く離れた場所で交錯した。
綾はすぐに視線を逸らし、何事もなかったかのように母の隣に佇んだ。しかし、胸の高鳴りは収まらなかった。
(あの少年、ただ者ではない……私の「朧なる守り」の揺らぎを感じ取ったのかもしれない)
それは、綾にとって初めての経験だった。これまで、自分の秘密は完璧に守られていると信じていた。しかし、この世界には、自分の理解を超えた感覚を持つ人間がいるのかもしれない。
一方、晴明もまた、微かな手応えに眉をひそめていた。
(今のは……? まるで、誰かに見透かされたような……)
彼はもう一度、藤原の屋敷の方角に意識を向けたが、先程の奇妙な揺らぎは消え、再び静かな淀みに戻っていた。気のせいだったのだろうか。しかし、あの瞬間の、まるで薄いヴェール越しに誰かと目が合ったような感覚は、確かに残っていた。
その日の夜、秘密の書庫に戻った綾は、いつも以上に慎重に「朧なる守り」の調整を行った。
(もっと完璧にしなければ……誰にも気づかれないように)
あの少年の鋭い視線は、綾に新たな課題を与えた。それは、自分の技術をさらに洗練させ、より不可視なものにするということだった。
同時に、綾の心には、これまで感じたことのない微かな感情が芽生えていた。それは、恐怖とは少し違う、むしろ一種の「興味」に近いものだったかもしれない。
(あの少年は、一体何を感じ取ったのだろう? 彼もまた、何か特別な力を持っているのだろうか?)
この日、綾と晴明は、互いの存在を明確に認識したわけではない。しかし、二人の間には、目に見えない運命の糸が、確かに結ばれ始めていた。
一人は、太古の超文明の叡智を胸に秘め、孤独な探求を続ける姫君。
もう一人は、まだ見ぬ陰陽の道を歩み始める、稀有な才能を持つ少年。
彼らの道が本格的に交わるのは、まだ少し先のことになる。しかし、この予期せぬ邂逅は、綾の閉ざされた世界に、ほんの僅かな風穴を開けるきっかけとなるのかもしれなかった。
そして、綾は改めて強く決意した。
自分の知識と技術は、誰にも知られてはならない。しかし、いつか来るかもしれない「その時」のために、より深く、より広く、探求を続けなければならない、と。
その「時」が、魑魅魍魎が跋扈する混乱の時代であるとは、まだ綾自身も想像だにしていなかった。




