其の三:黒子狂騒曲!~若様(仮)の落とし物と甘味の誘惑~
俺たち黒子の主な活動は、都での情報収集や下準備だが、時折、橘様の指示で、あの「秘密の拠点」――影詠み様がご滞在されるという、都のはずれの古い屋敷――の警備や雑務を手伝うことがある。
これが、俺たちにとっては、何よりの誉れであり、そして最大の緊張を強いられる任務でもある。なにせ、あの神のごとき「影詠み」様が、すぐそこのお部屋にいらっしゃるかもしれないのだから!
「おい、弥助! そこの埃、ちゃんと払っておけよ! もし影詠み様のお目に留まったら、俺たちの首が飛ぶぞ!」
「分かってるって、小吉! お前こそ、庭の落ち葉拾い、手ぇ抜くんじゃねえぞ!」
拠点の中では、俺たち黒子は、普段の裏社会でのふてぶてしさはどこへやら、まるで新米の小僧のように、ピリピリしながら掃除や整理整頓に励んでいる。橘様の厳しい目が光っているというのもあるが、それ以上に、「影詠み」様への畏敬の念が、俺たちをそうさせていた。
拠点には、影詠み様が使われるという書斎や、何やら不思議な道具が並べられた「工房」のような部屋がある。俺たちは、それらの部屋には決して立ち入ることを許されていない。ただ、時折、橘様のお供でその部屋の前を通りかかったり、あるいは、影詠み様がお帰りになった後に、橘様の指示で部屋の清掃(もちろん、中の物には一切触れない)を手伝ったりするだけだ。
それでも、その部屋から漂ってくる、墨と、どこか甘いような、そして清浄な香木の香りを嗅ぐだけで、俺たちは「ああ、これが影詠み様の世界……」と、勝手に感動したりしている。
先日、そんな工房の清掃を手伝っていた時のことだ。
俺は、床の隅に、何か小さなものが落ちているのを見つけた。
手に取ってみると、それは、手のひらに収まるほどの、可愛らしい兎の形をした、小さな木彫りの根付だった。丁寧に磨き上げられ、赤い目がちょこんとついている。
「……なんだ、これ?」
「おい、弥助! 勝手に触るな!」
小吉が慌てて飛んできたが、俺は、その根付から目が離せなかった。
こんな可愛らしいものを、あの神のごとき影詠み様が……?
「……も、もしかしたら、これは影詠み様がお使いになる、何かの『呪具』なのかもしれないぞ!」
小吉が、声を潜めて言った。
「呪具……? こんな兎の形をしたものがか?」
「ああ! きっと、この兎の姿に敵を油断させ、その赤い目で相手の魂を縛り付ける、恐ろしい呪いの道具なんだ! さすがは影詠み様、我々の想像もつかないような術をお使いになる!」
(……いや、どう見てもただの可愛い根付にしか見えないけど……)
俺はそう思ったが、小吉のあまりにも真剣な顔つきに、何も言えなかった。
結局、その兎の根付は、橘様にそっとお渡しし、橘様は無言でそれを影詠み様の葛籠の中へと仕舞われた。俺たちの間では、しばらく「影詠み様の兎型呪具」の恐ろしさが噂になったものだ。
また、こんなこともあった。
影詠み様が拠点にお戻りになったある日、橘様が俺たちに「影詠み様がお疲れのご様子なので、何か甘いものでもご用意するように」と命じられた。
俺たちは、それはもう大騒ぎだ。
「影詠み様がお召し上がりになる甘味だぞ! 下手なものは出せん!」
「都で一番と評判の饅頭屋に走るか!?」
「いや、待て! 影詠み様は、我々凡人のような甘ったるいものは好まれんかもしれん! もっとこう、霊力を高めるような、薬草を練り込んだ高尚な菓子とか……」
「それだ! 俺、薬草には少し詳しいぞ! 確か、不老長寿の仙人が好んだという秘伝の……」
喧々囂々(けんけんごうごう)の議論の末、俺たちが自信満々で橘様にお出ししたのは、「霊峰白山の霊水と、七種の秘薬を練り込み、満月の光で清めたる、不老不死の霊菓(という名の、見た目は真っ黒で、味はなんとも形容しがたい代物)」だった。
橘様は、それを一口お味見になり、しばらく無言で天を仰いだ後、「……影詠み様には、いつもの饅頭で良いそうだ」と、静かにおっしゃった。
俺たちの自信作は、結局、俺たち自身でありがたく頂戴することになったのだが……正直、二度と口にしたくない味だった。
(影詠み様……意外と庶民的なお好みなのかもしれない……)
俺は、その時、ほんの少しだけ、影詠み様を身近に感じたような気がした。
そんなこんなで、俺たち黒子の「影詠み様」像は、日を追うごとに、より神々しく、より謎めいて、そして時折、ちょっぴり可愛らしい(?)ものへと、勝手にバージョンアップされていく。
橘様は、そんな俺たちの様子を、時折、口元に微かな笑みを浮かべながら見守っておられる。そして、決して俺たちの「夢」を壊すようなことはおっしゃらない。
俺は、今日も今日とて、都の影で情報を集める。
いつか、あの神のごとき影詠み様のお役に立てる日を夢見て。
そして、時折、あの可愛らしい兎の根付のことを思い出し、(やっぱり、あれは恐ろしい呪具だったんだろうか……?)と、一人首を傾げるのだった。
まさか、その根付が、数日前まで五歳の姫君の小さな手に握られ、彼女の悪夢を慰めるためのお守り代わりだったなどとは、弥助は知る由もなかったのである。




