其の二:黒子奮闘記!~我らが若様(仮)と謎の上司(本物)~
「……ったく、またあの店の親父、帳簿ごまかしてやがったな。これで何度目だよ」
俺――名を弥助という――は、薄暗い路地裏で、仲間の小吉と二人、息を潜めながらため息をついた。俺たちは、橘様直属の「黒子」の一員だ。表向きは、都の片隅で日雇い仕事なんぞをしながら、その実、橘様の命を受け、都の様々な情報を集めたり、時にはちょっとした「お仕事」をこなしたりしている。
今夜の仕事は、近頃羽振りが良すぎると噂の呉服屋の内偵だ。案の定、店の奥の隠し部屋で、二重帳簿の束と、どう見ても真っ当な品とは思えぬ舶来の品々を発見した。
「しかし弥助、橘様は本当に何でもお見通しだよな。俺たちが見つける前に、大抵のことはご存知なんだから」
小吉が、感心したように言う。
「ああ。あの御方は、まさに『千里眼』ってやつだ。俺たちが泥水すすって集めた情報も、橘様にとっては、ただの『確認作業』みてえなもんなんだろうな」
我らが上司、橘様は、まさに理想の上司だ。
物静かで、常に冷静沈着。俺たち下っ端の黒子に対しても、決して威張ることなく、常に敬意を持って接してくださる。指示は的確で無駄がなく、そして何よりも、俺たちの安全を第一に考えてくださる。
以前、少し危険な任務で俺がヘマをやらかした時も、橘様は決して俺を責めず、ただ静かに「次はこうすれば良い」と、的確な助言を与えてくださった。あの時は、本当に涙が出るほど嬉しかったもんだ。
「でもよぉ、弥助。最近、橘様が心酔していらっしゃる『影詠み』様って、一体どんなお方なんだろうな?」
小吉が、声を潜めて尋ねてきた。
「影詠み」様――。
それは、俺たち黒子の間でも、最大の謎であり、そして最高の憧れの的だ。
橘様から伝え聞くそのご活躍は、まさに神業。悪徳商人を懲らしめ、異邦の黒船を退け、そして時には、人ならざるものの怪異さえも鎮めてしまうという。
俺たちは、そのお姿を直接拝見したことはない。橘様の指示で、その活動を遠巻きにサポートしたり、後始末をしたりするだけだ。
「さあな。橘様も、詳しいことは何もおっしゃらないからな。ただ……時々、橘様が『影詠み』様のことを話される時、ものすごく嬉しそうな、それでいて、どこか心配そうな、何とも言えないお顔をされるんだよな」
「へえ? あの鉄面皮の橘様が?」
「ああ。まるで、出来の良い、でもちょっと危なっかしい若様を見守る傅役みてえな感じだ」
俺たちの間での「影詠み」様のイメージは、それはもう、すごいことになっている。
曰く、「齢は若いが、その知略と武勇は古今の英雄にも劣らぬ、凛々しい若武者」。
曰く、「その瞳は星々のように輝き、その声は雷鳴のように敵を打ち砕く、天界からの使者」。
曰く、「実は絶世の美女で、夜な夜な黒衣を纏い、悪を討つために舞い踊る、謎の舞姫」。
……まあ、最後のやつは、もっぱら若い連中の妄想だが。
「一度でいいから、そのお姿を拝んでみてえもんだよなぁ」
小吉が、うっとりとした表情で言う。
「馬鹿野郎。俺たち黒子は、影に徹してこそだ。影詠み様のお邪魔になるようなことは、絶対にあっちゃならねえ。それが、橘様への忠義ってもんだ」
俺は、そう言いながらも、内心では小吉と同じことを考えていた。
俺たちの主な活動場所は、都の裏社会だ。
日中は、人足や物売り、あるいは旅芸人のふりをして都中を歩き回り、様々な情報を集める。どこの店が繁盛しているか、どこの貴族が揉め事を起こしているか、どこの辻で怪しい輩が目撃されたか……。
そうして集めた情報は、全て橘様へと報告され、それが「影詠み」様の次なる「お仕事」へと繋がっていく。
時には、橘様の指示で、ちょっとした「仕掛け」をすることもある。
例えば、悪徳役人の屋敷の塀に、夜中にこっそり「悪行は必ず暴かれる」なんていう落書きをしたり。
あるいは、不正を働く商人の店の前に、どこからともなく腐った魚を大量にばら撒いたり。
まあ、大抵は、地味で、誰にも気づかれないような仕事ばかりだが、それでも、俺たちは誇りを持ってやっている。なぜなら、それが巡り巡って、「影詠み」様のお役に立ち、この都の平和を守ることに繋がっていると信じているからだ。
仲間たちは、皆、俺と同じような境遇の者ばかりだ。
親に捨てられたり、食い詰めて都に流れ着いたり……。そんな俺たちを、橘様は拾い上げ、生きる術と、そして「誇り」を与えてくださった。
だから、俺たちは橘様に絶対の忠誠を誓っている。そして、その橘様が心からお仕えする「影詠み」様は、俺たちにとっても、まさに希望の光なのだ。
「さて、今日の仕事も終わりだ。橘様に報告に戻るか」
「おう。明日は、どんな『お仕事』が待ってるかねぇ」
俺と小吉は、夜の闇に紛れて、呉服屋の裏路地を後にした。
月明かりが、俺たちの黒い装束を、ほんの一瞬だけ照らし出す。
俺は、まだ知らない。
俺たちが心から尊敬し、憧れている「影詠み」様が、実は、俺たちが時折、都で見かける、あの物静かで可愛らしい、藤原の姫君であるなどとは。
そして、その姫君が、時折、俺たちの地味な「お仕事」の報告を聞いて、内心で(弥助たち、また面白いことしてるわね)と、くすりと笑っていることなど、夢にも思っていないのである。
黒子たちの奮闘は、今日も今日とて、都の影で続く。




