第四話:知識の奔流、小さな器に満ちて
秘密の書庫を手に入れたことで、綾の探求は新たな段階に入った。
それは、太古の記憶からもたらされる膨大な情報を、より体系的に整理し、理解を深める作業だった。三歳の幼い脳にはあまりにも過大な情報量だったが、綾の知的好奇心と、あの女性技術者の「視点」が、それを可能にしていた。
書庫の片隅に、綾は自分だけの「作業台」を設えた。それは、古びた文机を磨き上げただけの簡素なものだったが、綾にとっては聖域のような場所だった。そこには、庭で見つけた滑らかな石や、鳥の羽根、侍女にねだって手に入れた墨と小さな筆、そして何よりも、綾の頭の中にしかない数々の設計図や数式を書き留めるための、貴重な紙が置かれていた。
紙は高価なものであり、三歳児が遊びで使えるものではなかったが、綾は父・為時の書斎から、書き損じの反故紙を少しずつ持ち出しては、大切に使っていた。侍女たちは、姫君が時折、父の書斎の隅で何かを探している姿を「お父様のお仕事に興味がおありなのだろう」と微笑ましく解釈していた。
綾は、まず「記憶」の中の基礎科学から学び始めた。
物理学、化学、数学、生物学――それらは、かの超文明では子供たちが最初に学ぶ基礎知識だった。しかし、この時代の人間にとっては、魔法か夢物語にしか聞こえないような内容だ。
(万物は原子で構成されている……エネルギーは形態を変えるだけで、総量は不変……生命は遺伝情報によって受け継がれる……)
それらの概念を理解するたびに、綾の世界観は書き換えられていった。目の前にある木も、石も、自分自身の体も、全てが精緻な法則の上に成り立っている。その事実に、綾は畏敬の念すら覚えた。
特に綾が夢中になったのは、あの女性技術者が専門としていたエネルギー工学と情報科学の分野だった。
記憶の中の彼女は、常に新しいエネルギー源を求め、より効率的な情報伝達手段を開発しようとしていた。その情熱は、綾にも強く伝播し、彼女自身の探求心を燃え上がらせた。
綾は、反故紙の裏に、複雑な数式や記号、そして見たこともないような装置の設計図を、小さな手で懸命に書き写した。それは、彼女の記憶を整理し、定着させるための作業だった。誰にも読めない文字、理解不能な図形。しかし、綾にとっては、それらが世界で最も美しい芸術のように思えた。
もちろん、困難もあった。
太古の知識は、この世界の常識とはあまりにもかけ離れていた。綾が理解できる言葉や概念に置き換える作業は、骨の折れるものだった。例えば、「電気」という概念。この世界には存在しないため、綾はそれを「雷の精髄」や「万物を動かす見えざる力」といった言葉で自分なりに解釈し、記録していった。それは、やがて彼女が独自の「術」を編み出す際の、重要な語彙となっていく。
また、三歳児の身体能力の限界もあった。
精密な作業をしようにも指先が思うように動かず、長時間集中するとすぐに疲れてしまう。しかし、綾は諦めなかった。記憶の中の技術者も、数々の失敗と試行錯誤を繰り返して成果を上げていた。その姿が、綾を励まし続けた。
(焦ることはない。一歩ずつ、確実に……)
時折、綾は書庫の小さな窓から外を眺めた。
屋敷の庭では、同年代の乳兄弟たちが元気に走り回り、侍女たちが楽しそうに談笑している。それは、平和で、穏やかな日常の風景だった。しかし、綾の目には、その日常がいかに脆く、不安定な基盤の上に成り立っているかが映っていた。
(この平和は、いつまで続くのだろう……)
太古の記憶は、文明の繁栄だけでなく、その崩壊の過程も綾に見せていた。天変地異、資源の枯渇、そして、未知の脅威の出現。それは、遠い過去の話であると同時に、いつかこの世界にも起こりうる未来の可能性を示唆しているように思えた。
そんな不安を打ち消すように、綾は再び知識の海へと没頭した。
もし、いつかこの世界に危機が訪れるのだとしたら、自分に何ができるだろうか。この知識は、その時に役立つだろうか。
まだ幼い綾には、具体的な答えは見つけられなかった。しかし、ただ一つ確かなことは、知識は力になるということ。そして、その力を正しく使うためには、深い理解と、それを応用する知恵が必要だということだった。
四歳の誕生日を迎える頃には、綾の秘密の書庫は、彼女の知識と試行錯誤の痕跡で満たされ始めていた。壁には、彼女だけが理解できる記号や図が書き込まれ、文机の上には、小さな模型や実験道具の残骸が転がっていた。
それは、まさに「魔女の工房」とでも呼ぶべき光景だったかもしれない。しかし、そこに邪悪なものは何もなく、ただ純粋な知的好奇心と、世界への探求心だけが満ちていた。
そして、綾の「朧なる守り」も、少しずつ洗練されていった。
今では、書庫に近づこうとする者は、自然と別の場所に気を取られたり、急な眠気に襲われたりするようになった。それは、綾が意図的に周囲の「気」の流れを操作し、人の意識に干渉する術を、無意識の内に編み出し始めていた証拠だった。
この「術」は、まだ誰にも気づかれていない。しかし、それは確実に、綾の秘密を守り、彼女の探求を支える力となりつつあった。
幼き姫の胸に宿った星影は、知識という名の奔流となり、小さな器を満たしていく。それは、やがて来るべき時代の為の、静かで、しかし力強い準備期間だった。




