第三話:都の噂草子、「影詠み」様は何処の誰?
「聞いたかい、八百屋の源さん! 例の東の市の悪徳商人、夜逃げ同然で都から消えちまったって話だぜ!」
「おうよ、魚屋の辰五郎! なんでも、蔵から火が出て、悪事が全部バレちまったらしいじゃねえか。おまけに、検非違使の役人様んとこに、『影詠み』って名乗る謎の御仁から、悪事の証拠がごっそり届けられたってんだから、たまげたもんだ!」
日の高いうちから、都の安酒場は、そんな威勢の良い噂話で持ちきりだった。
職人や行商人、日雇いの男たちが、安い濁り酒を酌み交わしながら、最近都を賑わせている「影詠み」の話題に花を咲かせている。
「その『影詠み』様ってのは、いったい何者なんだろうな? 狐か狸が化けてるって話もあるし、はたまた、どこぞで奉られてる神様がお忍びで悪党退治をしてるって噂もあるぜ」
「俺が聞いた話じゃ、黒い衣を纏った小柄な若者で、風のように現れて悪を懲らしめ、霧のように消えちまうって話だ。まるで、昔話に出てくる義賊様みてえじゃねえか!」
男たちは、口々に自分たちが聞きかじった「影詠み」の姿を語り合い、その正体に思いを馳せる。それは、日々の厳しい暮らしの中で、彼らが渇望していた「正義の味方」の出現だったのかもしれない。
その頃、都の辻々では、時折、手描きの絵と簡単な文字で事件や噂を伝える、いわゆる「絵草子売り」や「読み売り」と呼ばれる者たちが、声を張り上げていた。まだ「かわら版」というほど洗練されたものではないが、庶民にとって貴重な情報源であり、娯楽でもあった。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 今、都で一番の話題! 神出鬼没の正義の味方、『影詠み』様の活躍譚だよ! 東の市の悪徳商人を懲らしめ、貧しいお婆さんを助けたって話、聞きたい者は銭一文!」
派手な身振り手振りで語る男の周りには、あっという間に人だかりができる。子供たちは目を輝かせ、大人たちも興味津々といった顔つきだ。
「その悪徳商人の蔵にはな、夜中にどこからともなく火の手が上がったんだが、不思議なことに、人っ子一人怪我することなく、悪人が溜め込んだ悪銭と品物だけが都合よく燃えちまったって寸法よ! そして、検非違使の旦那衆が駆けつけた時には、悪事の証拠がご丁寧に門前に置かれていたってんだから、こいつぁ驚きだ!」
男の巧みな話術に、聴衆は息を飲む。
「そして、その証拠には、『影詠み』と墨痕鮮やかに書かれていたって話さ! いったいどこのどなた様か、悪を憎んで弱きを助ける、まさに神仏の化身じゃねえか!」
そんな「影詠み」の噂は、あっという間に都中に広まっていった。
ある者は、困ったことがあると「影詠み様が現れて助けてくれないものか」と密かに祈り、またある者は、「影詠み様に悪事がバレたら大変だ」と、後ろめたい行いを控えるようになったという。
ほんの小さな変化かもしれないが、「影詠み」の存在は、確実に都の人々の心に影響を与え始めていた。
「うちの隣の長屋のお婆さんね、先日、夜道でならず者に絡まれそうになったんですって。そしたら、どこからともなく黒い影がスッと現れて、あっという間にならず者たちを懲らしめてくれたって。お婆さん、怖くて顔もよく見えなかったけど、最後に『お気をつけて』って、若い男の子みたいな声が聞こえたって言ってたわ」
洗濯物を干しながら、主婦たちが井戸端で囁き合う。
「まあ、それも『影詠み』様かしら? 本当に、神様みたいねぇ」
もちろん、綾はそのような噂が立っていることなど露知らず、今日も今日とて、姫君としての日常と、秘密の「影詠み」活動の準備に勤しんでいた。
侍女たちが「姫様、都では『影詠み』という方が、悪い人たちをやっつけてくれるんですって。まるで絵草子のお話みたいですわね」と無邪気に話しかけてきても、綾はただ「まあ、それは頼もしいですわね」と、にっこり微笑むだけだった。
(ふふふ、計画通り……いや、予想以上に噂が広まってるみたいね、フィラ)
《はい、マスター。民衆の口コミによる情報拡散速度は、初期予測を上回っております。マスターの「影詠み」としてのブランドイメージは、順調に構築されつつあると言えるでしょう》
フィラの冷静な分析に、綾は満足げに頷いた。
しかし、そんな「影詠み」の噂は、当然ながら為政者たちの耳にも入っていた。
父・為時は、「民衆の不安を煽るような、根も葉もない噂に過ぎぬ」としながらも、その正体不明の存在に一抹の警戒心を抱いているようだった。
そして、若き天才・安倍晴明は――。
「影詠み……か。面白い。この都には、まだまだ私の知らない『理ことわり』が隠されているようだ」
彼は、人々の噂を冷静に分析し、その背後に隠された真実を探ろうと、静かに思考を巡らせていた。
都に吹き始めた、新たな風。
それは、まだ小さな囁きに過ぎないが、やがて大きなうねりとなり、人々の運命を、そしてこの都の未来を、少しずつ変えていくことになるのかもしれない。




