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陰陽前夜(おんみょうぜんや) ~綾と失われた超文明~  作者: 輝夜
幕間:藤原家の奥の細道

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其の一:姫様と、旦那様と、奥様の日常茶飯事


「ねえ、聞いた? また蔵部の官庫で盗人が出たんですって」

「まあ、怖い! 物騒な世の中になったものねぇ」


藤原為時の屋敷の奥、侍女たちが一息つく湯沸かし場は、今日も今日とて、情報交換のサロンと化していた。洗濯物を畳みながら、お茶を淹れながら、彼女たちの口からは、都の噂から屋敷の中の些細な出来事まで、様々な話題が飛び交う。


「でも、うちの旦那様(為時)も、このところずっとお顔の色が優れないわよね。きっと、あの盗人の件で頭を悩ませていらっしゃるのよ」

古株の侍女であるおふくが、大きなため息をつきながら言った。彼女は若い頃から為時に仕えており、その心労を我が事のように感じている。

「本当に。奥様(藤乃)も、旦那様のお食事に精のつくものをと、料理番に色々と指示なさっているけれど……」

新米の侍女、おみつが心配そうに眉を寄せる。


「それにしても、綾姫様は本当にご聡明でいらっしゃるわねぇ」

話題は、自然と屋敷の小さな姫君へと移る。

「ええ、本当に。まだお小さいのに、少しも騒がず、いつも静かに書物(実は綾の反故紙コレクション)を眺めていらっしゃるもの」

「この間なんて、私が双六で負けそうになったら、『次はきっと良い目が出ますよ』って、にっこり微笑んでくださったの。そしたら本当に、六の目が三回も続いて大逆転よ! 姫様は、なんだか不思議な運をお持ちみたい」

おきくが、少し興奮したように話す。

「まあ、それはすごい! うちの姫様は、やはり只者ではないのねぇ」

おふくが、うんうんと頷く。彼女たちにとって、綾は「少し不思議で、とても賢く、そして幸運をもたらしてくれる天使のような姫君」なのだった。まさかその「幸運」が、姫君自身の超絶技巧(サイコロ操作)によるものだとは、誰も夢にも思っていない。


「でも、奥様は少しご心配なご様子よ。姫様が、あまりにも大人びていらっしゃって、年相応のわんぱくさがないって」

「ああ、それは私も聞いたわ。もっと外で元気に遊んでほしいって、時々おっしゃっているものね」

「でも、姫様ご自身は、お部屋で静かに過ごすのがお好きみたいだし……。難しいわよねぇ、子育てって」

侍女たちは、自分たちの子育て経験(あるいは姉妹や親戚の子の経験)を思い出し、うんうんと頷き合う。


「そういえば、この間、姫様が『北を指す石』について尋ねていらしたのよ。どこでお聞きになったのかしらねぇ」

おみつが、ふと思い出したように言った。

「まあ、北を指す石? そんなものがあるの?」

「さあ……? 姫様は、時々、私たちも知らないような難しいことをご存知なのよね。きっと、旦那様がお読みになる難しい書物でもご覧になったのかしら」

「さすがは中務卿様のお姫様だわ。血は争えないってことね」

侍女たちは、綾の知識欲を、家柄の良さと結びつけて納得するのだった。その知識の源泉が、遥か太古の超文明にあるなどとは、露ほども疑っていない。


「ところで、おふくさん。旦那様が最近、夜遅くまで書斎に籠もっていらっしゃるのは、やっぱりあの盗人の件かしら? 何か新しい情報でも?」

おきくが、声を潜めて尋ねる。

おふくは、少し勿体ぶったように周囲を見回してから、さらに声を低くして言った。

「それがね……どうやら、盗まれる品物が、何かの『儀式』に必要なものらしいのよ。しかも、犯行はいつも新月の夜だとか……。なんだか、気味が悪いわよねぇ」

「まあ! 儀式ですって!?」

「まさか、呪いとか……!?」

侍女たちの顔が一様に青ざめる。平安の都では、目に見えない力への畏怖は、人々の日常に深く根付いていた。


「……しっ! そんな大きな声で。旦那様や奥様に聞かれたら大変よ」

おふくが慌てて皆を制する。

「で、でも、もし本当に呪いとかだったら……姫様は大丈夫かしら? あんなにお小さいのに……」

おみつが、不安そうに呟く。

「大丈夫よ、きっと。綾姫様には、なんだか不思議な『守りの力』があるような気がするもの。それに、私たちだっているじゃない。姫様をお守りするのが、私たちの役目だものね」

おふくが、力強く言った。その言葉に、他の侍女たちも「そうよね!」「私たちが姫様をお守りするわ!」と、決意を新たにするのだった。


湯沸かし場の小さな井戸端会議は、結局のところ、姫君への深い愛情と、旦那様への忠誠心、そしてちょっぴりの不安と噂話で幕を閉じるのが常だった。

彼女たちの何気ない会話の中に、実は綾の秘密に繋がるヒントが隠されていたり、逆に綾が彼女たちの会話から重要な情報を得ていたりすることなど、彼女たちは知る由もない。

藤原家の日常は、そんな侍女たちの温かな(そして時におしゃべりな)視線に包まれながら、今日もまた、ゆっくりと、しかし確実に進んでいくのだった。

そして、その日常のすぐ隣では、小さな姫君による、誰にも知られない壮大な冒険が、静かに、しかし力強く胎動し続けているのである。

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