第十七話:聖域からの帰還、日常の小さな違和感
亜空間シェルターという、とてつもない秘密の場所と、フィラという心強い(そして可愛い)相棒を手に入れた綾だったが、彼女の日常は、表向きには何も変わらなかった。
相変わらず、父・為時の屋敷の奥深くで、物静かで聡明な姫君としての日々を送っている。しかし、綾の内面では、大きな変化が起きていた。
シェルターで得た知識は、綾の世界観をさらに深め、彼女の思考を加速させた。特に、「気」と呼ばれるエネルギーの操作に関しては、飛躍的な進歩を遂げていた。それは、もはや「朧なる守り」のような受動的なものではなく、より能動的に、周囲の環境に影響を与えることができるレベルに達しつつあった。
その変化は、綾の日常に、ほんの些細な、しかし奇妙な「違和感」をもたらし始めた。
例えば、ある日のこと。
綾が母・藤乃に手を引かれて庭を散策していると、一匹の蝶がひらひらと舞い、藤乃の結い上げた髪に止まろうとした。藤乃は虫があまり得意ではない。綾はとっさに、シェルターで学んだ「微細な気の流れの誘導」を試みた。
(あっちへ……そう、そっちの花の方へ……)
綾が心の中で念じると、蝶はまるで見えない風に押されたかのように、ふわりと軌道を変え、近くの秋明菊の花へと吸い寄せられるように飛んでいった。
「あら、危うく髪に止まられるところでしたわ。良かった」
藤乃はほっと胸を撫で下ろしたが、綾の仕業だとは夢にも思っていない。
綾もまた、何食わぬ顔で母を見上げていたが、内心では(成功した……けど、これはちょっとやりすぎたかも……?)と、冷や汗をかいていた。あまりにも自然に、そして正確に蝶を誘導できてしまったことに、自分でも驚いたのだ。
またある時は、綾が侍女たちと一緒に部屋で双六に興じていた時のこと。
綾の駒が、あと一歩で「上がり」というところで、どうしても不利な目ばかりが出てしまう。
(うーん、次は絶対「一」が出てほしいんだけど……)
綾がサイコロを振る瞬間、無意識の内に、ほんの僅かな「気の集中」を行ってしまった。すると、面白いようにコロコロと転がったサイコロは、ピタリと「一」の目で止まったのだ。
「まあ、綾姫様、お見事ですわ!」
「姫様は、本当に運がよろしいのですね!」
侍女たちは手放しで褒め称えたが、綾は顔を引きつらせていた。
(違う、これ、運じゃない……! 私、サイコロの目を操作しちゃった!?)
幸い、周囲は綾の「幸運」を疑うこともなく、綾も必死で平静を装ったが、その後は怖くて「気の集中」などできなかった。結果、あっさりと侍女に逆転負けしてしまい、「あらあら、姫様、今度は運に見放されてしまいましたわね」と慰められる始末だった。
(……うん、これでいいんだ。普通の子は、負けることもあるんだから……)
綾は、内心で自分に言い聞かせた。
一番困ったのは、無意識の内に発動してしまう「気配遮断」だった。
シェルターでフィラと共に「存在の希薄化」の訓練をしていた影響か、綾は時々、自分の気配を完全に消してしまうことがあった。
「綾、綾や。どこへ行ったのかしら?」
母の藤乃が心配そうに綾を探し回っている声が聞こえても、綾自身はすぐそばの帳台の陰にいたりするのだが、藤乃には全く気づかれない。まるで、そこに綾が存在していないかのように、素通りされてしまうのだ。
慌てて「ここにいます、母上!」と声を上げると、藤乃は「まあ、いつの間にそんなところに! 全く、肝を冷やしましたわよ」と、少し呆れたような、それでいて安堵したような表情を浮かべるのだった。
(これも、フィラとの訓練の成果……なんだろうけど、日常生活では不便すぎる……!)
綾は、自分の能力のコントロールの難しさを痛感していた。
そんな綾の小さな「変化」に、周囲の大人たちは相変わらず気づかない。彼らにとって綾は、「少し物静かだけれど、利発で、時々不思議なほど運が良い、可愛らしい姫君」という認識から揺らぐことはなかった。
しかし、綾自身は、自分の力が日に日に増していくのを感じ、その制御に苦心していた。
(この力を、どうすれば誰にも気づかれずに、必要な時だけ使えるようになるんだろう……)
亜空間シェルターという強力な後ろ盾を得たことで、綾の探求は新たな次元へと進んだ。しかしそれは同時に、この「日常」という名の舞台で、より巧妙に「普通の子」を演じ続けなければならないという、新たな試練の始まりでもあった。
その試練の中で、綾は時に悩み、時に小さな失敗を繰り返しながらも、少しずつ、その類稀なる力を自分のものにしていく。
それは、やがて来るべき時代に、誰にも知られず人々を救うための、大切な準備期間だったのかもしれない。
そして、そんな綾の奮闘を、フィラだけは全て知っていて、シェルターの中から温かく(そして時々、くすくすと笑いながら)見守っているのだった。




