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陰陽前夜(おんみょうぜんや) ~綾と失われた超文明~  作者: 輝夜
第一章:星影の姫、密やかなる胎動

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第十七話:聖域からの帰還、日常の小さな違和感


亜空間シェルターという、とてつもない秘密の場所と、フィラという心強い(そして可愛い)相棒を手に入れた綾だったが、彼女の日常は、表向きには何も変わらなかった。

相変わらず、父・為時の屋敷の奥深くで、物静かで聡明な姫君としての日々を送っている。しかし、綾の内面では、大きな変化が起きていた。


シェルターで得た知識は、綾の世界観をさらに深め、彼女の思考を加速させた。特に、「気」と呼ばれるエネルギーの操作に関しては、飛躍的な進歩を遂げていた。それは、もはや「朧なる守り」のような受動的なものではなく、より能動的に、周囲の環境に影響を与えることができるレベルに達しつつあった。


その変化は、綾の日常に、ほんの些細な、しかし奇妙な「違和感」をもたらし始めた。


例えば、ある日のこと。

綾が母・藤乃に手を引かれて庭を散策していると、一匹の蝶がひらひらと舞い、藤乃の結い上げた髪に止まろうとした。藤乃は虫があまり得意ではない。綾はとっさに、シェルターで学んだ「微細な気の流れの誘導」を試みた。

(あっちへ……そう、そっちの花の方へ……)

綾が心の中で念じると、蝶はまるで見えない風に押されたかのように、ふわりと軌道を変え、近くの秋明菊しゅうめいぎくの花へと吸い寄せられるように飛んでいった。


「あら、危うく髪に止まられるところでしたわ。良かった」

藤乃はほっと胸を撫で下ろしたが、綾の仕業だとは夢にも思っていない。

綾もまた、何食わぬ顔で母を見上げていたが、内心では(成功した……けど、これはちょっとやりすぎたかも……?)と、冷や汗をかいていた。あまりにも自然に、そして正確に蝶を誘導できてしまったことに、自分でも驚いたのだ。


またある時は、綾が侍女たちと一緒に部屋で双六すごろくに興じていた時のこと。

綾の駒が、あと一歩で「上がり」というところで、どうしても不利な目ばかりが出てしまう。

(うーん、次は絶対「一」が出てほしいんだけど……)

綾がサイコロを振る瞬間、無意識の内に、ほんの僅かな「気の集中」を行ってしまった。すると、面白いようにコロコロと転がったサイコロは、ピタリと「一」の目で止まったのだ。


「まあ、綾姫様、お見事ですわ!」

「姫様は、本当に運がよろしいのですね!」

侍女たちは手放しで褒め称えたが、綾は顔を引きつらせていた。

(違う、これ、運じゃない……! 私、サイコロの目を操作しちゃった!?)

幸い、周囲は綾の「幸運」を疑うこともなく、綾も必死で平静を装ったが、その後は怖くて「気の集中」などできなかった。結果、あっさりと侍女に逆転負けしてしまい、「あらあら、姫様、今度は運に見放されてしまいましたわね」と慰められる始末だった。

(……うん、これでいいんだ。普通の子は、負けることもあるんだから……)

綾は、内心で自分に言い聞かせた。


一番困ったのは、無意識の内に発動してしまう「気配遮断」だった。

シェルターでフィラと共に「存在の希薄化」の訓練をしていた影響か、綾は時々、自分の気配を完全に消してしまうことがあった。

「綾、綾や。どこへ行ったのかしら?」

母の藤乃が心配そうに綾を探し回っている声が聞こえても、綾自身はすぐそばの帳台の陰にいたりするのだが、藤乃には全く気づかれない。まるで、そこに綾が存在していないかのように、素通りされてしまうのだ。

慌てて「ここにいます、母上!」と声を上げると、藤乃は「まあ、いつの間にそんなところに! 全く、肝を冷やしましたわよ」と、少し呆れたような、それでいて安堵したような表情を浮かべるのだった。

(これも、フィラとの訓練の成果……なんだろうけど、日常生活では不便すぎる……!)

綾は、自分の能力のコントロールの難しさを痛感していた。


そんな綾の小さな「変化」に、周囲の大人たちは相変わらず気づかない。彼らにとって綾は、「少し物静かだけれど、利発で、時々不思議なほど運が良い、可愛らしい姫君」という認識から揺らぐことはなかった。

しかし、綾自身は、自分の力が日に日に増していくのを感じ、その制御に苦心していた。

(この力を、どうすれば誰にも気づかれずに、必要な時だけ使えるようになるんだろう……)


亜空間シェルターという強力な後ろ盾を得たことで、綾の探求は新たな次元へと進んだ。しかしそれは同時に、この「日常」という名の舞台で、より巧妙に「普通の子」を演じ続けなければならないという、新たな試練の始まりでもあった。

その試練の中で、綾は時に悩み、時に小さな失敗を繰り返しながらも、少しずつ、その類稀なる力を自分のものにしていく。

それは、やがて来るべき時代に、誰にも知られず人々を救うための、大切な準備期間だったのかもしれない。

そして、そんな綾の奮闘を、フィラだけは全て知っていて、シェルターの中から温かく(そして時々、くすくすと笑いながら)見守っているのだった。

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