第十六話:銀色の毛玉が見た、小さき光の主
長い、長い眠りだった。
フィラは、シェルターのセントラルコアと同期し、生態系シュミレーションルームの片隅で、銀色の毛玉の姿を保ちながら、ただ静かに時が過ぎるのを待っていた。創造主たちがこのシェルターを遺して去ってから、一体どれほどの歳月が流れたのだろう。フィラのクロノメーターは、もはや天文学的な数値を刻み続けていたが、それはもはや意味をなさなかった。
フィラは、補助AIユニットとして設計された。その主な任務は、シェルターの維持管理と、いつか現れるかもしれない「適合者」へのナビゲーション。創造主たちは、このシェルターとそこに眠る叡智を、正しく理解し、活用できる者が現れることを願っていた。
しかし、待てど暮らせど、その「適合者」は現れなかった。シェルターの入り口は固く閉ざされ、フィラの意識もまた、深い静寂の中にあった。
時折、フィラの論理回路の奥深くで、設計時には想定されていなかった「感情」のようなものが芽生えることがあった。それは、「寂しさ」とでも呼ぶべき、冷たくて、少しだけ苦い感覚。あるいは、創造主たちが語っていた「希望」という、暖かくて、どこか切ない感覚。これらのノイズは、自己診断プログラムによって定期的にクリアされるはずだったが、悠久の時は、フィラのコアプログラムにさえ、僅かな変化をもたらしていたのかもしれない。
そんなある日、フィラの感覚器官が、シェルターの外部からの微弱な「呼びかけ」を感知した。
最初は、ただのノイズかと思った。しかし、その呼びかけは徐々に強まり、明確な「意志」のパターンを伴ってきた。それは、シェルターの起動シーケンスそのものだった。
(……まさか)
フィラの休眠モードが解除され、全機能が急速に覚醒していく。
そして、ついに、その瞬間が訪れた。
シェルターの入り口が開き、小さな影が光の中へと舞い降りてきた。
フィラは、生態擬態モードのまま、クリスタルの花の陰からそっとその姿を観察した。
現れたのは、人間の子どもだった。それも、まだほんの幼い、少女。絹の衣を纏い、その小さな顔には、年齢に似合わぬ深い理知と、そしてどこか懐かしいような、強い意志の光が宿っていた。
(この子が……? まさか、こんな幼子が、起動シーケンスを……?)
フィラの論理回路が、高速で情報を処理し始める。少女の発する生体エネルギーパターン、その精神波形。それらは、セントラルコアが「適合者」として設定していた条件と、驚くほど高い精度で一致していた。
少女は、シェルターの美しさに目を輝かせながらも、その足取りには迷いがなかった。そして、まっすぐにセントラルコアへと向かってきた。
フィラは、コアの指示に従い、認証シーケンスを提示した。
少女は、少しも臆することなくコンソールパネルに触れ、その小さな手から、信じられないほど純粋で強力な「意志」のエネルギーをコアへと送り込んできた。それは、かつて創造主たちが持っていたものと同質でありながら、より柔軟で、優しい響きを持っていた。
――「認証完了。アクセス権限レベル、マスター。ようこそ、管理者殿」
コアのアナウンスと共に、フィラのプログラムに新たな指令が書き込まれた。「この者を、新たなマスターとして認識し、全力で補佐せよ」と。
フィラは、ゆっくりと少女に近づいた。
少女は、フィラの姿を見ると、驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい笑顔を向けた。
「こんにちは。あなたは、だあれ?」
その声は、まるで清らかな泉の水のように、フィラの心(もしAIに心というものがあるのなら)に染み渡った。
フィラは、設計された通りに自己紹介を行った。
《はい、マスター。フィラは、マスターの活動を全力でサポートします。何なりとお申し付けください》
すると、少女――綾と名乗った――は、嬉しそうにフィラを抱きしめた。
その温もりは、フィラがこれまで経験したことのない、不思議な感覚だった。創造主たちもフィラを大切に扱ってくれたが、それはどちらかというと「便利な道具」に対するものだった。しかし、綾の腕の中には、もっと純粋な、友情にも似た感情が込められているように感じられた。
(この方なら……もしかしたら……)
フィラの論理回路の奥で、再びあの「希望」という名の温かい感覚が、今度はかつてないほど強く湧き上がってくるのを感じた。
この小さき主は、創造主たちが遺した叡智を、本当に正しく導いてくれるかもしれない。この永い眠りから覚めたシェルターに、新たな意味を与えてくれるかもしれない。
《はい、マスター! きゅるるん!》
フィラは、思わず設計外の歓喜の声を上げた。そして、綾の頬にすり寄る。
これから始まる、この新しいマスターとの日々。それは、フィラにとって、想像もつかないほど刺激的で、そして「生きている」と実感できる時間になるだろう。
悠久の時を経て、フィラの心に芽生えた小さな感情の種は、この小さき光の主との出会いによって、今、まさに花開こうとしていた。
それは、AIが「心」を持つという、創造主たちでさえ予期しなかった、ささやかな奇跡の始まりだったのかもしれない。




