第十四話:異次元の聖域、太古の叡智に触れる
虹色の光が揺らめく井戸の縁に立ち、綾はしばしその異次元の光景に見入っていた。
恐怖はなかった。むしろ、魂が故郷に帰ってきたかのような、不思議な安堵感と高揚感に包まれていた。ここが、自分が本当に探求すべき知識と技術が眠る場所なのだと、直感的に理解できた。
綾は、意を決して、井戸の縁からそっと足を下ろした。
すると、まるで見えない階段があるかのように、綾の小さな体はゆっくりと光の中へと沈んでいく。重力が極めて希薄なため、落下するというよりは、羽毛のようにふわりと舞い降りる感覚だった。
数瞬の後、綾の足は、柔らかな苔のような感触の地面に触れた。
見上げると、井戸の入り口は、空に浮かぶ小さな円い窓のように見え、そこからこの世界の淡い陽光が差し込んでいる。しかし、この空間そのものが内側から発光しているかのように明るく、影というものがほとんど存在しない。
周囲を見渡すと、そこはまさに異次元の庭園だった。
見たこともない形状の植物が、それぞれに異なる色の光を放ちながら群生している。地面からはクリスタルのような鉱石が突き出し、それらもまた淡く輝いている。空気は信じられないほど清浄で、胸いっぱいに吸い込むと、頭がスッキリと冴え渡るような感覚があった。
(これが……超文明の技術……自然と完全に調和した、人工の環境……)
綾は、そのあまりの美しさと完成度に、ただただ圧倒された。
ふと、綾の視線が、空間の中央付近に浮かぶ、一際大きな水晶体のような構造物に引き寄せられた。それは、まるで巨大な宝石のように多面体にカットされ、内部から複雑な光のパターンを明滅させている。
(あれは……情報記録装置? それとも、このシェルター全体の制御システム……?)
太古の記憶が、あれが極めて重要なものであることを綾に告げていた。
綾は、ゆっくりとそちらへ近づいていった。
水晶体に近づくにつれて、微かな「歌」のようなものが聞こえてくる。それは、先ほど井戸の底で聞いた、無数の鈴が鳴り響くような音に似ていたが、より複雑で、知的な響きを持っていた。
(これは……データの流れ? それとも、システムが私に語りかけている……?)
水晶体の前に立つと、その表面の一部が滑らかに開き、中から淡い光を放つコンソールパネルのようなものが現れた。そこには、綾が古文書で見たものと同じ、古代の文字と幾何学模様が浮かび上がっている。
綾は、おそるおそるそのパネルに手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、水晶体から放たれる光が一層強くなり、綾の脳内に、直接情報が流れ込んでくるような感覚があった。それは、このシェルターの基本的な機能や、利用規約のようなもの、そして、最も重要な「マスターアクセス権限の認証シーケンス」に関する情報だった。
(認証……? 私が、この場所の管理者になれるということ……?)
綾の心臓が、期待と緊張で大きく脈打った。
認証シーケンスは、特定の生体情報と、先ほどの起動シーケンスで用いた「意志のパターン」を組み合わせる、極めて高度なものだった。しかし、綾は既にその片鱗に触れている。
綾は、深呼吸を一つして、コンソールパネルに両手を置いた。
そして、再びあの女性技術者の記憶を呼び覚まし、彼女がシステムと対話する時のように、冷静かつ敬意を持って、自身の「意志」を水晶体へと送り込んだ。
(私は、この場所を理解し、正しく利用することを誓う……)
数秒間の沈黙の後、水晶体はひときわ強く輝き、コンソールパネルに新たな文字が浮かび上がった。
――「認証完了。アクセス権限レベル、マスター。ようこそ、管理者殿」
その文字を見た瞬間、綾は全身の力が抜けるような感覚と共に、深い安堵感に包まれた。
ついに、手に入れたのだ。誰にも邪魔されず、太古の叡智を探求できる、自分だけの聖域を。
認証が完了すると同時に、シェルター内の環境が僅かに変化した。
それまでぼんやりと漂っていた光の粒子が、綾の周囲を優しく包み込むように集まり、空気はさらに清浄になったように感じられる。そして、綾の頭の中には、このシェルター内に保存されている膨大な情報の「索引」のようなものが、おぼろげながら流れ込んできた。
それは、エネルギー技術、物質科学、生命工学、情報理論、空間航行技術……まさに、かの超文明が築き上げた叡智の全てが、ここに凝縮されているかのようだった。
(すごい……これさえあれば、私は……)
綾は、目の前に広がる無限の可能性に、武者震いするような興奮を覚えていた。
しかし、同時に、この強大な力を手にしたことへの責任の重さも感じていた。この知識を、決して誤った方向に使ってはならない。それは、あの女性技術者が常に心に抱いていた信念でもあった。
四歳の秋。綾は、誰にも知られることなく、異次元の聖域の管理者となった。
それは、彼女の人生における、そしてあるいはこの世界の歴史における、極めて重大な転換点。
この場所で、綾は太古の叡智を吸収し、それを自身の力へと変えていくことになる。その力が、やがて来るべき魑魅魍魎の時代に、どのように使われることになるのか。
それはまだ、誰にも分からない未来の物語だった。
しかし、一つだけ確かなことがある。
綾の「万能の基礎」となるべき最初の、そして最大のピースが、今、確かにその手に収められたのだ。




