5-第一話:七歳の秋、歪む空と迫りくる異変の足音
綾が、七つになった年の秋。
都の空は、相変わらず不気味な赤いオーロラが揺らめき、大地は時折、不安を煽るように微かに震えた。しかし、あの衝撃的な「空間の亀裂」の一件以来、都を直接襲うような大規模な怪異の出現は鳴りを潜め、人々はどこかその異常な日常に慣れ始めてさえいた。いや、慣れたというよりは、諦観と、そしてどこか奇妙な「期待感」が入り混じった、独特の空気が都を包んでいた。
なぜなら、この二年間で、平安京は、もはや「平安」でも「京」でもない、何か別の「魔改造都市」へと変貌を遂げていたからだ。
夜になれば、主要な大路には、綾姫様謹製の「星明かりの道(超高性能LED街灯・動物さんパレードデザイン、時々音楽も流れる特別仕様)」が煌々と輝き、まるで不夜城のような賑わいを見せる。貴族街の一部では、雅な屋形船(実は小型反重力飛行ユニット、ただし操縦が難しく、時々池に墜落する)が、屋根の上を音もなく滑るように行き交い、庶民の長屋では、どこからともなく供給される「清浄なる湯水(シェルター直結・超絶浄水システム、たまにラメが混じるお楽しみ機能付き)」を使った共同浴場が大繁盛。時折、都の北にある「清滝」の裏から、黄色いアヒルさん型ロボット(カミカゼくん・水中潜行強襲型)が編隊飛行で、水しぶきを上げて勇ましく飛び出してきたり、宮城のお堀の、絶妙な死角にある石垣が「ガコン!」という小気味よい音と共に秘密のハッチを開き、そこから綾の個人用小型飛行ユニット「鳳凰丸・弐式・ステルスお忍びバージョン(見た目は雅な牛車だが、屋根がパカッと開いて翼が出てくるギミック付き)」が、猛スピードで夜空へと発進したりする光景も、もはや都の日常の一コマとなりつつあった。
「……また影詠み様が、何か新しい『おまじない』でも始めたのかしらねぇ。お陰で、夜道も明るくて助かるけど、時々、空からキラキラした何かが降ってくるのは、何とかならないものかしら」
「きっと、あれも悪いものを追い払うための、ありがたい『星の欠片』なのよ。ありがたや、ありがたや」
都の人々は、これらの「奇跡(という名の、綾による秘密のインフラ整備と、時々のテスト飛行の失敗)」を、全て「影詠み様(と、そのお弟子さんである晴明様の大活躍)」の霊験あらたかなる力のおかげと信じ、深く感謝し、そしてどこかその「ありえない日常」を、一種のエンターテイメントとして楽しんでいる節さえあった。
その頃、秘密の拠点「朧月邸」の静かな庭園では、執事の橘が、ようやく一日の激務(主に、綾姫様のお世話と、影向衆への指示、そして時々発生するシェルター関連の謎トラブルの処理)を終え、縁側で一人、月見酒と洒落込んでいた。手には、綾姫様が「これ、シェルターで見つけたんだけど、なんだか美味しそうだったから」と下さった、奇妙な形をした干し果実(実は異星のスーパーフードで、食べると三日間は不眠不休で働けるらしい)と、年代物の白磁の酒器。
「……ふぅ。今宵の月も、また格別ですな。姫様も、ようやくお休みになられたご様子。この静寂が、いつまでも続けば良いのだが……」
橘は、深いため息と共に、杯をくいと傾けた。その口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。彼の脳裏には、昼間の綾姫様の、お稽古事での可愛らしい失敗談や、時折見せる大人びた表情、そして夜の「影詠み」としての凛々しいお姿が、走馬灯のように駆け巡っていた。
(……姫様が七つになられてから、ますますそのお可愛らしさと、そしてご聡明さに磨きがかかって……。いやはや、この橘、お仕えできる喜びで、寿命が百年は延びたような心地でございますぞ。……まあ、その分、胃の痛みも増えましたがな……はっはっは)
一人ごちて、橘がもう一杯、と徳利に手を伸ばした、まさにその時だった。
ヒュゴオオオオォォォォーーーーーッッ!!!!
という、およそこの平安の都には似つかわしくない、ジェットエンジンのような轟音と共に、夜空の彼方から、何やら丸っこくて、フワフワしてそうで、しかも両耳がピョコンと立った、巨大な「何か」が、猛スピードで朧月邸の庭めがけて突っ込んできたのだ!
「ぶーーーーーーーーっっっ!!!!」
橘は、口に含んだばかりの極上の月見酒を、盛大に噴き出した。幸い、酒器は割れずに済んだが、彼の丹精込めて手入れしていた盆栽が、無残にも酒浸しになってしまった。
「な、な、な、何事ですかなーーーーーっ!?」
老練な執事の、普段は決して崩れることのないポーカーフェイスが、この時ばかりは完全に崩壊し、目が点になっている。
その「何か」――もちろん、綾が開発した最新鋭の「一人乗り用・超小型励起光子ホバークラフト・朧月号(見た目は、巨大な白兎のぬいぐるみ型。綾の趣味全開である)」――は、庭の池にザッパーン!と派手な水しぶきを上げて不時着(?)すると、中から、頭から兎の耳(操縦桿)を生やし、顔中煤だらけで、髪もボサボサの、しかし瞳だけは爛々と輝かせている、我らが綾姫様が、よろよろと這い出してきた。
「うわわわっ! ちょっと、カミカゼくん1号! 右に避けすぎだってば! 今、五重塔のてっぺんにぶつかりそうになったじゃないの! おかげで、朧月号の左耳のスラスターがイカれちゃったじゃないのよーっ!」
綾は、操縦席(という名の、兎の背中のフワフワした窪み)に座ったままの、小さな紙人形(カミカゼくん。今日はなぜかパイロットゴーグルを装着している)に向かって、ぷんすかと頬を膨らませている。どうやら、カミカゼくんに朧月号の自動操縦を任せて、ちょっとした夜間飛行を楽しんでいたところ、またしてもAIのバグで暴走し、あわや大惨事となるところだったらしい。
「あっちゃー! また、お公家様の屋敷の池に水しぶき上げちゃった! 明日、橘さんに絶対怒られるわ……! って、あれ? 橘さん!? な、なんでこんなところに!? しかも、そのお顔、どうかなさいましたの!? まるで、怪異でもご覧になったような……」
綾は、ようやく縁側で固まっている橘の姿に気づき、きょとんとした顔で尋ねた。その煤けた顔と、ボサボサの髪、そして何よりも、巨大な兎のぬいぐるみ型ホバークラフトから降りてきたという、あまりにもシュールな光景。
橘は、しばし言葉を失い、ただただ目の前の「姫様(であり、影詠み様であり、そして時々、理解不能なメカニックでもある)」を見つめていた。
(……ひ、姫様……。その……なんというか……アバンギャルドな……お姿は……。そして、あの巨大な白兎は……もしや、新たな式神……? いや、しかし、あのジェット噴射音は……。ああ、もう、わたくしの理解の範疇を、完全に超えております……!)
《マスター、朧月号のメインスラスターの出力が不安定です。おそらく、先日の「励起光子・超圧縮クッキー焼き上げ実験(という名の大爆発)」の際の余波で、制御回路の一部に軽微な、しかし致命的な損傷が……。ただちに自己修復シーケンスを起動しますが、完了まで約3分27秒を要します。それまでは、くれぐれも安全運転で、池から上がる際には足元にご注意くださいませ……って、マスター!? 前方にご注意ください! 巨大な鯉(橘が丹精込めて育てていた錦鯉)が、朧月号のプロペラに巻き込まれようとしております! ああっ! 鯉さんが! 鯉さんがーっ!》
シェルターから、フィラの冷静な(しかしどこか楽しんでいるような、そして鯉の心配をしているような)警告が、綾の脳内に直接響き渡る。
「ひええええぇぇぇっ! もう! なんで私の作る乗り物って、いっつもこう、どこかしらポンコツなのかしらーっ! フィラ、何とかしてーっ!」
綾の絶叫が、今宵もまた、ネオ平安京の(比較的静かだったはずの)夜空に虚しく響き渡った。その声は、橘の耳には、もはや子守唄のようにさえ聞こえ始めていた。
橘は、ようやく我に返ると、深呼吸を一つ。そして、長年培ってきた執事としての冷静さを(無理やり)取り戻し、懐から絹の手巾を取り出して、綾にそっと差し出した。
「……姫様。お顔が、その……大変なことになっておりますぞ。まずはこちらで。そして、お話は、その後でゆっくりと……。ああ、それから……影向衆! 緊急事態だ! 姫様がお池に! いや、姫様の『お乗り物』がお池に! 大至急、引き上げ作業の準備を! あと、鯉の安否確認も忘れずにな! もし、あの錦鯉に何かあれば、今夜の夕餉は抜きだぞ!」
橘の、普段の穏やかな口調からは想像もつかないほどの、切羽詰まった、しかし的確な指示が、朧月邸の闇に響き渡る。どこからともなく現れた黒子たちが、慌ただしく動き始めた。
その時、物陰からそっと顔を出した弥助が、小声で小吉に囁いた。
「……おい、小吉。聞いたか? 橘様、今、はっきりと『姫様』って……。しかも、二回も……。これって、もう……」
小吉もまた、こくこくと頷き、顔を見合わせる。
「……ああ。公然の秘密が、ついに駄々洩れでございますな……。だが、俺たちの忠誠心は、びくともしねえぜ! むしろ、燃え上がるってもんだ!」
(……姫様、尊い……! あんなお姿でも、いや、あんなお姿だからこそ、お護りしなければ……!)
黒子たちの「姫様(影詠み様)お護りミッション」へのモチベーションは、思わぬ形で最高潮に達していた。
(……姫様。わたくし、いつか本当に、心臓が止まるかもしれませぬ……。しかし、それもまた、執事冥利に尽きるというもの……なのでしょうなぁ……ふぅ。……しかし、影向衆の奴らめ、聞き逃さなかったか……。まあ、良い。あれほどの忠誠心があれば、姫様の秘密も安泰であろう……たぶん)
橘の胃薬の消費量は、今宵もまた、確実に記録を更新したのだった。そして、彼の「鉄の掟」は、早くも形骸化しつつあるのかもしれない。
そんな綾の「秘密の夜間飛行(という名の、お騒がせハイテク暴走飛行)」を、都の片隅では、いくつかの視線が捉えていた。
一人は、もちろん橘香子。
「……まあ! 今宵も、影詠み様が、あの白銀の霊獣(朧月号のこと)に跨り、都の平和を守るため、夜空を駆けていらっしゃるのね……! 時々、池に落ちたり、五重塔にぶつかりそうになったりするのも、きっと何か深遠なる『お茶目』な一面をお持ちの証拠に違いないわ! なんて勇ましく、そしてちょっぴりドジっ子で、メルヘンチックなのかしら! ああ、影詠み様……! 今夜のミュージカルの練習にも、さらに熱が入りますわ!」
彼女は、自室の窓から、うっとりとした表情で、夜空をフラフラと飛ぶ兎(のぬいぐるみ型ホバークラフト、現在、池から引き上げ作業中。黒子たちが「姫様汁(池の水)だ!」と叫びながら、なぜかその水をありがたそうに浴びている)を見上げていた。その手には、もちろん「影詠み様応援ミニのぼり旗・超絶技巧刺繍入り・家宝級バージョン(もはや芸術品の域)」が、激しく振られている。
もう一人は、宮廷陰陽寮(仮)の屋上で、夜空の星々を観測していた安倍晴明。
「……む? またしても、あの奇妙な『飛行物体』か……。励起光子の波動を、以前よりもさらに不規則かつ強力に放ちながら、予測不能な軌道で都の上空を(主に池や、なぜか俺の家の屋根に向かって)飛び回るとは……。あれは、もしや『影詠み』が使役するという、伝説の『月兎の最終決戦形態・バーサーカーモード』か何かか……? いや、しかし、あの落下時の水しぶきの上がり方と、その後の謎の紙人形による救助活動(に見える何か)……どことなく、先日、光栄が足を滑らせて鴨川に頭から突っ込み、それを道満と武虎が、なぜか魚釣りの網で助けようとして、さらに事態を悪化させた時の光景に酷似しているような……? ふむ、興味深い……。これは、新たな『厄災回避の陣』のヒントになるやもしれん……」
晴明は、真剣な顔で首を傾げ、その「謎の飛行物体」の正体と、その「落下と救助の法則性(?)」について、またしても壮大な(そして完全に的外れで、しかも失礼な)考察を始めていた。彼の研究ノートには、新たなページが、勢いよく、そしてどこか楽しげに書き加えられていく。
そして、最も深刻な表情でその光景(の一部始終)を見つめていたのが、朧月邸の庭の池のほとりで、ずぶ濡れになった綾姫様(と、同じくずぶ濡れの巨大な兎のぬいぐるみ、そしてなぜか一緒にずぶ濡れになっている数名の黒子たち)を、甲斐甲斐しくタオルで拭いている、執事の橘だった。
「……姫様……。また、朧月号の制御システムが、あらぬ方向へと……。お願いですから、せめて、帝のおわす大内裏の、あの黄金の鳳凰の上空と、そしてわたくしの育てている錦鯉の池だけは、お避け遊ばしていただきたい……。わたくしの寿命と、そして鯉たちの命が、本気でマッハでございます……」
彼の心労は、綾の「おかしな進化」と、その「お約束の暴走」、そして部下たちの「ダダ漏れ忠誠心」と共に、ますます深まる一方であった。しかし、その口元には、どこか諦観と、そして姫様への深い愛情と、ほんの少しの「まあ、これが日常か」という悟りのようなものが滲んでいる。
しかし、そんなカオスで、でもどこか平和な(?)ネオ平安京の日常に、再び異変の足音が、確実に、そして不気味に忍び寄ろうとしていた。
都の北の外れにある古井戸――以前、綾が「夜鳴き鐘」事件を(ハイテクで)解決した場所――の周辺で、ここ数日、再び不気味な現象が頻発し始めていたのだ。夜な夜な井戸の底から、まるで魂を吸い込むかのような冷たい風が吹き出し、その風に触れた家畜や、時には人間までもが、原因不明の衰弱を見せるという。そして、その井戸の周囲だけ、励起光子の濃度が、異常なほど高まり、まるで黒い靄のように淀んでいるのを、フィラのセンサーが捉えていた。
「北の古井戸……。あそこは、確か以前、私が『対怨霊用・超指向性音波式符・猫まっしぐらバージョン(なぜか猫よけ効果も追加されていた)』で、残留思念を浄化したはず……。まさか、あの時の怪異が、励起光子のさらなる影響で、より強力な『何か』に進化して復活したというの……? しかも、今回は猫よけ効果が効かないタイプ……!?」
綾は、ようやく朧月号の泥を落とし終え(黒子たちが「姫様の泥!ありがたや!」と叫びながら、なぜかその泥を瓶に詰めていたのは見なかったことにした)、濡れた髪をタオルで拭きながら、フィラからの報告に眉をひそめた。その顔には、先ほどまでのドタバタ劇の疲労と、新たな脅威への警戒が入り混じっている。
都を覆う赤いオーロラは、その輝きを一段と増し、大地は、再び不気味な振動を、まるで何かの胎動のように、静かに、しかし確実に始めている。
二年という束の間の、奇妙で騒がしい平穏は、終わりを告げようとしていた。
獣牙の荒野の者たちが、ついに本格的な行動を開始する「その時」が、刻一刻と近づいている。
綾は、深呼吸を一つすると、朧月号(応急修理済み、ただし左耳はまだ痛々しく曲がっており、右目にはなぜか絆創膏が貼られている)の操縦桿を、再び力強く握りしめた。
「フィラ、橘さん。どうやら、今夜も『影詠み』のお仕事みたいね。……ただし、今回は、少しばかり手こずるかもしれないわよ。そして、お願いだから、朧月号、今度こそちゃんと飛んでちょうだいね……! 池ポチャはもう嫌よ! 特に、橘さんの錦鯉の前では!」
その声には、七歳の少女とは思えぬ、強い覚悟と、そしてほんの少しの、愛機への(切実な)願いと、橘さんへの(申し訳なさそうな)配慮が滲んでいた。
魔改造都市・平安京を舞台にした、綾の新たな戦いが、今、始まろうとしていた。
そして、その戦いは、やがてこの世界の運命を揺るがす、大きな嵐の前触れとなるのかもしれない――。