第四話:綾姫様の「おかしな」お稽古事~和歌に詠み込む宇宙の法則~
秘密基地ネットワークの構築が着々と進み、綾の「影詠み」としての活動基盤が盤石になりつつあった一方で、「藤原綾」としての日常もまた、それなりに(そしてある意味、別の戦いを)送らなければならなかった。
七歳ともなれば、貴族の姫君としてのお稽古事も本格化し、綾のスケジュールは、昼も夜も(文字通り)分刻みの忙しさとなっていた。しかし、そのお稽古事の場においても、綾の「規格外」っぷりは、遺憾なく(そして時折、周囲を困惑させながら)発揮されていたのである。
「……綾様、本日の歌題は『秋の夜長の寂しさ』でございます。月の光に照らされる庭の露、物悲しく鳴く虫の声……そのような情景を、五七五七七の調べに乗せてみてはいかがでしょう」
和歌の師である、穏やかな物腰の老女官が、綾に優しく語りかける。
綾は、硯で墨をすりながら、真剣な表情でしばし考え込んだ。そして、筆を走らせ、淀みなく一首を詠み上げた。
「……『星々の 彼方の闇に 思考の波 届かぬ刹那 エントロピー増す』……。いかがでございましょうか、先生」
「…………」
師の女官は、綾の差し出した短冊を手に、しばし絶句した。
そして、何度かその歌を口の中で反芻した後、おそるおそる尋ねた。
「……あ、綾様……。その……『えんとろぴー』とは、どちらの国の言葉で、どのような意味を持つものでございましょうか……? そして、その『思考の波』とは、もしや恋に悩む乙女の、乱れる心模様を例えたもの……なのでしょうか……?」
その声は、明らかに困惑し、そして若干引いている。
(しまったわ! またシェルターの宇宙物理学の講義データと、和歌の感情表現が、頭の中でごっちゃになってしまった……!)
綾は、内心で顔を赤らめた。最近、あまりにも多くの情報を処理しすぎているせいで、時々、このような「知識の混線」が起こるのだ。
「あ、いえ、先生! これは、その……遠い、遠い、想像の国の言葉でございまして……。ええと、その……『エントロピー』とは、こう、胸がキュンとなるような、切ない気持ちのことなのでございます! きっと!」
綾は、必死で取り繕った。そのあまりにも苦しい言い訳に、師の女官は、ますます不思議そうな顔をしたが、聡明な姫君の言うことだから何か深遠な意味があるのだろうと、無理やり自分を納得させることにした。
(……姫様の世界は、我々凡人には計り知れぬほど、奥が深いものらしい……)
琴のお稽古でも、綾の「才能(という名の超科学の応用)」は、遺憾なく発揮されていた。
彼女の奏でる琴の音色は、技術的には完璧で、その澄んだ響きは聴く者の心を捉える。しかし、時折、その演奏の中に、この時代の音楽とは明らかに異質な、未来的な(あるいは宇宙的な)スケールを感じさせるフレーズが紛れ込むのだ。
「……綾様、今のその……なんというか、星が降ってくるような、それでいて空間が歪むような……不思議な音階は、どちらの流派のものでございましょうか……?」
琴の師匠である、厳格な雰囲気の老楽人も、綾の演奏を聴きながら、しばしば眉をひそめて首を傾げた。
「これは……わたくしが夢の中で聴いた、天上の音楽でございますわ! きっと、月の兎さんたちが、お餅つきをしながら歌っているのに違いありません!」
綾は、ニコリと天使のような笑顔で答える。(実際には、シェルターのデータベースにある、異星文明の環境音楽をアレンジしたものなのだが)
師匠は、そのあまりにもメルヘンチックな(しかしどこか説得力のある)説明に、それ以上何も言えなくなり、「……さ、左様でございますか……。姫様の感性は、まこと豊かでいらっしゃる……」と、感心するしかなかった。
そんな綾の「おかしな」お稽古事の様子は、当然ながら、妹のたかこの目にも、はっきりと映っていた。
たかこは、姉の綾が、時折、常人には理解不能な言葉を発したり、人間離れした技術を披露したりするのを、もはや日常の光景として受け入れつつあった。そして、それらを全て「お姉様は、やはり普通の人ではない。きっと、月の都からやってきた、高貴な姫君に違いないのだわ……」と、彼女独自の「源氏物語・月姫編(仮題)」の重要なエピソードとして、せっせと脳内メモに書き留めている。
「お姉様、先日の琴の音色、まるで星々が囁き合っているようでしたわ。あれは、きっと月の言葉なのでしょうね……」
「お姉様の描かれるお花は、いつも不思議な形をしていますけれど、きっと月の都には、あのような美しい花が咲き乱れているのですね……」
たかこの、純粋で、しかしどこか的を射た(?)指摘に、綾は「え、ええ、そうよ! たかこは物知りね!」と、冷や汗をかきながら答えるのが精一杯だった。
(……この子、将来、とんでもない暴露本とか書くんじゃないでしょうね……。それだけは勘弁してほしいわ……)
綾の、妹に対する一抹の不安は、日増しに大きくなっていくのだった。
そして、母・藤乃もまた、娘の奇行……いや、その類稀なる才能(と信じたい)の成長に、喜びと、そしてそれ以上の戸惑いを隠せないでいた。
「……あなた。綾のあのお稽古事での様子……。確かに、上達は目覚ましいのですが、時折、あの子が本当に『私たちの娘』なのか、分からなくなることがありますの……」
藤乃は、夫の為時に、そっと胸の内を打ち明ける。
「まあ、藤乃。綾は、少しばかり人とは違う感性を持っているだけだ。それもまた、あの子の個性であろう。それに、あの子が詠む歌や、奏でる琴の音は、確かに人の心を打つものがあるではないか。……たとえ、その歌詞の意味が、我々にはさっぱり理解できなくともな……」
為時は、そう言って苦笑したが、彼の瞳の奥にもまた、娘に対する深い愛情と、そしてどこか掴みきれない「何か」への、かすかな畏怖のようなものが宿っていた。
綾の「お姫様」としての日々は、周囲の大人たちの(主に好意的な)誤解と、(妹からの鋭すぎる)観察眼、そして(本人の必死の)取り繕いによって、奇妙なバランスの上に成り立っていた。
それは、まるでハラハラドキドキのコメディドラマのようでもあり、しかし、その仮面の下には、世界の危機と戦う「影詠み」としての、孤独な決意が常に秘められている。
そして、その二つの顔を持つことが、綾という存在を、より複雑で、より魅力的なものへと成長させているのかもしれない。
ただし、そのせいで、彼女の周囲の人々の心労が絶えないのは、もはや避けられない運命なのだろう。
特に、橘さんの胃薬の消費量は、最近、確実に増えているという噂だ。
姫君の日常は、今日も今日とて、おかしな方向に絶好調!
その「才能」が、いつか本当に宇宙の法則を解き明かすのか、それともただの「不思議ちゃん伝説」として語り継がれるだけなのか……。
そして、妹・たかこ様の「お姉様観察日記(脳内連載中)」の行方も、気になるところです!