第十七話:ヴォルフラムの焦燥、風穴の「蓋」に異変!
朧月邸での斥候部隊の壊滅、そして「影詠み」と「星詠みの少年」という二つの厄介な存在の連携の報告は、獣牙の荒野の奥深く、隻角の魔将ヴォルフラムの元へと、即座にもたらされた。
玉座に腰掛け、その報告を聞いたヴォルフラムの黒曜石のような瞳には、初めて、焦りの色と、そして隠しようのない怒りの炎が宿った。
「……フェンリルめ、あの程度の小童どもに、こうも容易く敗れるとはな。しかも、解毒薬とやらの奪取も失敗し、あまつさえ、我が獣牙の戦士たちが、訳の分からぬ『光』に戦意を奪われただと……? 聞き捨てならぬわ!」
ヴォルフラムの声は、低く、しかし周囲の空気を震わせるほどの威圧感を放っていた。彼の傍らに控える側近たちもまた、主君の怒りに触れぬよう、息を殺してその言葉を待つ。
「あの『影詠み』……そして、あの『星詠みの小僧』……。奴らは、我らが想像していた以上に、この世界の『理』に深く関わっているのかもしれん。特に、あの五色の光……あれは、単なる偶然の産物ではあるまい。我らの『魂の炎(励起光子)』とは異なる、しかしどこか通じる、『星々の力』とでも言うべきものか……」
ヴォルフラムは、腕を組み、思考を巡らせる。彼は、力だけでなく、知略にも長けた指揮官だ。今回の敗北は、彼にとって大きな屈辱であると同時に、この世界の「未知なる力」への警戒心を、さらに強める結果となった。
「……もはや、小手先の斥候など不要。次こそは、我が直々に、あの忌々しい都を蹂躙し、奴らの『希望』とやらを根こそぎ奪い尽くしてくれるわ。そして、あの『星の盾』なるものの正体も、この手で暴き出してくれようぞ」
ヴォルフラムの瞳に、冷酷な決意の光が灯る。
しかし、その時、彼の元へ、さらに不吉な報告が舞い込んできた。
「ヴォルフラム様! 大変でございます! あの『風の傷』を塞いでいた『封じの壁』に……異変が!」
伝令の獣人が、息を切らしながら駆け込んできた。
「何だと……!?」
ヴォルフラムの表情が、一変する。
彼らが「風の傷」と呼ぶ、こちらの世界へと繋がる空間の亀裂。その亀裂は、百獣の王ヴォルガの命により、獣牙の民の総力を挙げて築かれた「封じの壁」――彼らの魂の炎と呪術で固められた巨大な障壁――によって、辛うじてその拡大を抑えられていた。それは、いわば異世界への「蓋」のようなものだった。
しかし、その「蓋」が、今、内側から……いや、むしろ、こちらの世界から流れ込む「励起光子」の圧力の増大と、獣牙の荒野そのものの地盤の不安定化によって、悲鳴を上げ始めていたのだ。
「壁に、無数の亀裂が走り、そこから、あの忌まわしき『虚無の気(励起光子とは異なる、空間の歪みから生じる負のエネルギーのようなもの)』が、我らの世界へと逆流し始めております! このままでは、壁が完全に崩壊するのも、時間の問題かと……!」
伝令の報告は、絶望的なものだった。
「……馬鹿な……! あの壁は、少なくとも数年は持ちこたえるはずだったのでは……!? なぜ、今になって……!」
ヴォルフラムは、愕然とした。
「まさか……あの『影詠み』と『星詠みの小僧』の仕業か……? いや、それだけの力があるとは思えぬ……。だとすれば、この世界の『歪み』そのものが、我々の予想を遥かに超える速度で進行しているというのか……!?」
彼の焦りは、頂点に達した。
もし、「封じの壁」が崩壊すれば、二つの世界は完全に繋がり、獣牙の荒野の者たちが、無秩序に、そして大量に、こちらの世界へと流れ込むことになる。それは、ヴォルフラムにとっても、決して望ましい事態ではなかった。彼は、あくまで「計画的」に、そして「効率的」に、この世界を支配し、その「力の源」を奪い取りたかったのだ。
しかし、このままでは、制御不能な混沌が、全てを飲み込んでしまうかもしれない。
「……おのれ……! あの小童どもめ、時間を稼ぎおったか……! だが、それもここまでよ!」
ヴォルフラムは、玉座から立ち上がった。その体からは、これまでにないほどの強大な闘気が溢れ出している。
「全軍に伝えよ! 我ら獣牙の荒野の『大いなる狩り』を、予定よりも早く開始する! 目標は、あの忌々しい都! そして、そこに眠る『星の盾』! もはや、躊躇している暇はない! あの世界の『歪み』が、我らの手にも負えなくなる前に、全てを終わらせるのだ!」
彼の咆哮は、獣牙の荒野全体に響き渡り、眠っていた獣たちの闘争本能を呼び覚ました。
一方、獣牙の荒野の頂点に立つ「百獣の王」ヴォルガは、このヴォルフラムの独断専行とも言える動きを、玉座から静かに見つめていた。その隻角は、不気味なほど静まり返っている。
彼の真意は、まだ誰にも分からない。ただ、彼の瞳の奥には、この世界の、そしてあるいは自分たち獣牙の民の「運命」を見据えるかのような、深い光が宿っていた。
「風の傷」の「蓋」に生じた異変。
そして、ヴォルフラムの焦燥と、早められた「大いなる狩り」の開始。
それは、綾たちが予想していたよりも早く、そして遥かに絶望的な形で、最終決戦の火蓋が切られようとしていることを意味していた。
都の、そして世界の運命は、まさに風前の灯火。
残された時間は、あまりにも少ない。
綾と晴明は、この圧倒的な脅威の前に、果たして「星の盾」を起動させることができるのだろうか。
そして、その先に待ち受けるものは、希望か、それとも……。
物語は、いよいよクライマックスへと向けて、その速度を上げていく。
ヴォルフラムの焦りが、二つの世界を、破滅的な衝突へと導こうとしていた。