第十二話:古文書の謎、異界の囁き
安倍晴明との(一方的な)遭遇と、社交界でのヒヤヒヤ体験を経て、綾は自身の秘密を守ることの重要性と難しさを改めて痛感していた。
「朧なる守り」は格段に強化されたが、それでも完璧ではない。そして何より、太古の記憶からもたらされる知識の中には、この小さな書庫で再現するにはあまりにもスケールが大きく、危険を伴うものが数多く存在した。
(もっと安全で、誰にも干渉されない場所が必要だ……私の知識を、心置きなく探求できる場所が……)
そんな想いが、綾の胸の内で日増しに強くなっていた。四歳も半ばを過ぎ、彼女の思考はますます深く、複雑になっていた。
そんなある日、綾は秘密の書庫で、父・為時が若い頃に収集したという、ひときわ古びた木簡の束を見つけた。それは、唐からもたらされたものでも、この国の公文書でもない、どこのものとも知れぬ異国の文字で記された、不思議な巻物だった。父も解読できず、ただ珍しいものとして仕舞い込んでいたらしい。
しかし、綾の脳裏に宿る太古の記憶は、その奇妙な文字のいくつかに反応を示した。
(この文字……どこかで……そうだ、あの技術者の女性が、極秘のプロジェクト資料で使っていた暗号化された言語体系に似ている!)
綾は、胸の高鳴りを抑えながら、その木簡を慎重に広げた。
描かれていたのは、複雑な幾何学模様と、星図のようにも見える不可解な図形、そして、所々に綾の記憶にある古代言語の断片が散りばめられていた。
(これは……何かの設計図? それとも、どこかへの道を示す地図……?)
太古の記憶を総動員し、綾はその難解な木簡の解読に没頭した。それは、これまで彼女が取り組んできたどの課題よりも複雑で、時間のかかる作業だった。数日、数週間と時間が過ぎ、綾は寝食も忘れるほどその解読にのめり込んだ。
侍女たちは、姫君がまた何やら難しい「遊び」に夢中になっているのだろうと、微笑ましく見守っていた。まさかその「遊び」が、世界の理を揺るがしかねない古代の秘密に繋がっているとは、夢にも思わずに。
そして、ついに綾は、その木簡に隠された驚くべき情報を解き明かした。
それは、この世界の物理法則とは異なる次元に存在する「亜空間シェルター」へのアクセス方法を示した、一種の「鍵」となる情報だったのだ。
かの超文明は、万が一のカタストロフィに備え、あるいは高度な研究を行うために、このような不可視の避難所をいくつも用意していたらしい。その一つが、何らかの理由でこの世界の古い木簡に記録され、奇跡的に綾の手に渡ったのだ。
(亜空間シェルター……! そこなら、誰にも邪魔されずに研究ができる! 私の知識を、本当に試せる場所……!)
綾の瞳が、かつてないほど強い輝きを放った。それは、新たな可能性への扉が開かれた瞬間だった。
しかし、問題は、そのシェルターへのアクセス方法だった。
木簡には、特定の「座標」と、そこに至るための「起動シーケンス」のようなものが記されていた。座標は、どうやらこの屋敷の敷地内のどこかを指しているらしい。そして、起動シーケンスは、特定の音階の組み合わせと、微細な「気」の操作、そして何よりも、術者の強い「意志」を必要とするものだった。
(音階……これは、記憶の中の音響装置で使われていた周波数パターンに似ている。気の操作は、「朧なる守り」で培った技術を応用できるかもしれない。問題は、意志の力……)
綾は、まず「座標」の特定に取り掛かった。
木簡に描かれた図形と、屋敷の庭の配置、そして太古の記憶にある測量技術を組み合わせ、数日かけてその場所を割り出した。それは、屋敷の最も奥まった場所にある、今はもう使われていない古い井戸の近くだった。その井戸は、昔から「底なし井戸」と呼ばれ、不吉な噂が絶えないため、誰も近づこうとしない場所だった。
(ここなら、誰にも見られない……)
次に、綾は「起動シーケンス」の再現に取り掛かった。
記憶を頼りに、小さな木の笛を作り、木簡に記された音階を奏でる練習を始めた。それは、この世界の音楽とは全く異なる、不協和音のようにも聞こえる奇妙な旋律だった。
そして、その音と共に、「気」を集中させ、井戸の底へと意識を送り込む。木簡に描かれた幾何学模様を頭の中で正確にイメージし、「扉よ、開け」と強く念じる。
最初は、何も起こらなかった。
井戸はただ静かに暗い口を開けているだけで、綾の呼びかけに応える気配はない。
(まだ何かが足りない……? それとも、私の力が及ばないだけ……?)
綾は焦りを覚えながらも、諦めずに何度も挑戦を繰り返した。
来るべき急成長の予兆は、まだ誰にも気づかれていない。
しかし、古文書の謎を解き明かした小さな姫君の胸には、異界への扉を開く鍵が、確かに握られようとしていた。それは、彼女の運命を、そしてあるいはこの世界の運命をも大きく変えることになる、壮大な冒険の始まりだったのかもしれない。




