第十五話:乙女の祈り、再び!~香子の直感と、芳子の薬草が繋ぐ奇跡~
獣牙の斥候たちが都に潜入し、橘率いる影向衆との静かなる情報戦が繰り広げられていた頃。
都の北の外れ、貧しい人々が多く暮らす長屋の一角で、新たな異変が発生していた。
それは、「眠るように死に至る」という、奇妙な病だった。
罹った者は、まず高熱と共に激しい悪寒を訴え、やがて深い眠りに落ちる。そして、数日のうちに、まるで魂が抜けていくかのように衰弱し、静かに息を引き取るのだという。医者も薬師も匙を投げ、人々は「これは、新たな呪いか、あるいは物の怪の仕業ではないか」と恐れおののいていた。
「……また、新しい病かしら。励起光子の影響で、未知のウイルスでも発生したのかしら……?」
綾は、亜空間シェルターで、フィラからその報告を受け、厳しい表情で呟いた。朱雀門の一件以来、都の励起光子濃度は依然として高く、それが人々の免疫力を低下させ、様々な病気を引き起こしやすくしている可能性は否定できない。
《マスター、今回の症例は、これまでのデータにはない、極めて特異なパターンを示しています。ウイルスや細菌による感染症とは異なる、もっと……精神的な、あるいは霊的な要因が関与している可能性も……》
フィラの分析もまた、事態の深刻さを物語っていた。
そんな中、橘香子が、いつもの「影詠み乙女の会」の集まりで、いつになく真剣な、そして青ざめた顔で綾に話しかけてきた。
「綾姫様……。実は、わたくしの乳母の遠い親戚が、北の長屋で例の『眠り病』に罹ってしまったのです……。お見舞いに行ったのですが、その長屋の周辺だけ、なんだか空気が重くて、息が詰まるような……そして、奥にある古い森の方から、とても冷たくて、悲しい『気配』を感じたのですわ」
香子の瞳には、涙が滲んでいた。
「影詠み様なら、きっとこの病の原因をお分かりになるのではないかと……。そして、もし、もし何かお力になれることがあるのなら……!」
その言葉は、もはや単なる「影詠み様への憧れ」ではなく、切実な願いと、そして綾への信頼に満ちていた。
(香子ちゃんの、この『気配』を感じる力……。また、何かを捉えているのかもしれないわね……)
綾は、香子の言葉に、以前「眠り病」を解決した時のことを思い出していた。あの時も、香子の直感が、事件解決の大きなヒントとなったのだ。
「……フィラ、香子様の言う『北の古い森』、そして『冷たくて悲しい気配』。何か関連するデータはある?」
《はい、マスター。当該の森には、古くから『涙石の苔』と呼ばれる、特殊な苔が自生しているとの記録があります。この苔は、特定の条件下で、人の精神に影響を与える微弱な胞子を放出すると言われていますが……詳細は不明です。ただ、最近の励起光子濃度の変化により、その胞子の性質が変異し、より強力な『精神汚染』を引き起こしている可能性が考えられます》
「涙石の苔……精神汚染……。それが、眠り病の原因だと?」
《その可能性は高いかと。そして、マスター、もう一つ……。薬草に詳しい芳子様が、以前、この『涙石の苔』の毒性を中和する可能性のある薬草について、古い文献で読んだことがある、と話しておられたのを記憶しています》
フィラの言葉に、綾はハッとした。芳子――あの物静かで、しかし薬草の知識にかけては右に出る者のいない、乙女の会のメンバー。
綾は、すぐに香子と芳子を、朧月邸の「秘密の茶室(という名の、実はシェルターへの隠し通路がある部屋)」へと招いた。もちろん、表向きは「お茶会」という名目だ。
そこで、綾は、二人に(影詠み様から預かった情報、という体で)「眠り病」の原因が、北の森の特殊な苔の胞子にある可能性を告げた。
そして、芳子に、その苔の毒性を中和できる薬草について尋ねた。
芳子は、最初こそ驚いていたが、やがて真剣な表情で記憶を辿り、
「……はい、思い出しましたわ。それは、『陽光桜の花弁』と、『月影草の根』、そして『星屑石の粉末』を特定の割合で調合したもので、古の巫女たちが、邪気を祓い、人の魂を鎮めるために用いたという『鎮魂香』の処方に似ております……。もしかしたら、これが……」
「陽光桜……月影草……星屑石……。フィラ、それらの素材、シェルターのデータベースにある? あるいは、地上で入手可能かしら?」
綾の問いに、フィラは即座に応答した。
《はい、マスター。陽光桜と月影草は、シェルター内の植物プラントで栽培可能です。星屑石も、ごく微量ながら、シェルターの地質サンプルの中に……。ただ、解毒薬として十分な量を精製するには、数日を要する可能性がございます》
「数日……。それまで、病の拡大を食い止めなければ……」
綾は、唇を噛んだ。
その時、香子が、決意を秘めた瞳で綾を見つめて言った。
「綾姫様……いえ、影詠み様。もし、わたくしにお手伝いできることがあるのなら、何なりとお申し付けくださいませ。わたくし、乳母の親戚の方を、そして都の人々を、何としてもお救いしたいのです!」
その言葉には、もはや「影詠み様への憧れ」だけではない、一人の人間としての、強い意志と覚悟が込められていた。芳子もまた、静かに、しかし力強く頷いている。
綾は、二人の真摯な眼差しに、胸が熱くなるのを感じた。
(……そうよ、私は一人じゃない。香子ちゃんや芳子様のような、素晴らしい仲間たちがいるじゃない……!)
「ありがとう、香子様、芳子様。あなたたちのお力、ぜひお借りしたいわ。芳子様には、解毒薬の調合を手伝っていただきたいの。そして、香子様には……あなたのその『気配を感じる力』で、病に苦しむ人々の『心の声』を聞き、彼らを励まし、希望を与えてほしいのです」
それは、綾が初めて、彼女たちを「影詠み」の協力者として、明確に認めた瞬間だった。
そこから、朧月邸を舞台とした、三人の少女たちによる、人知れぬ「解毒薬開発プロジェクト」が始まった。
芳子は、シェルターから提供された薬草(もちろん、橘経由で「影詠み様が山で見つけた貴重な薬草」として渡された)を、綾の指示(太古の知識に基づく精密な調合方法)に従い、丹念に調合していく。その手際は、もはや熟練の薬師のそれだった。
香子は、綾と共に、病に苦しむ人々が多く住む長屋を(もちろん、お忍びで)訪れ、彼らの不安や恐怖の声を、その敏感な心で受け止め、そして、優しい言葉と、心からの祈りで、彼らの心を少しでも和らげようと努めた。彼女の純粋な「祈り」は、不思議と人々の心を落ち着かせ、希望の光を灯す力を持っていた。
そして、綾は、シェルターで解毒薬の最終調整を行いながら、同時に、晴明率いる宮廷陰陽寮に、匿名で「北の森の古い柳の周辺に、邪気を祓う結界を張るべし。ただし、柳そのものを傷つけてはならぬ。影詠み」という「ご神託(という名の、かなり具体的な指示)」を送った。
晴明は、そのご神託に「やはり影詠み様は、全てお見通しであったか!」と感動し、早速「天狐の眼」のメンバーたちと共に、北の森で(相変わらず珍妙な)結界設置作業を開始する。その結界が、実際に病の拡大を抑える効果があったのかどうかは定かではないが、少なくとも、人々を森に近づけないようにする「警告」としては、十分に機能した。
数日後。
綾と芳子の努力、そして香子の祈りが実を結び、ついに「眠り病」の解毒薬(という名の、精神安定効果と免疫力向上効果のある特殊な鎮魂香)が完成した。
それは、橘と影向衆の手によって、都の人々に「影詠み様から授かった、病を祓う霊香」として、密かに配られた。そして、その香を嗅いだ人々は、嘘のように悪夢から解放され、穏やかな眠りを取り戻し、徐々に快方へと向かっていったのだ。
「……やったわね、香子様、芳子様! 私たち、都の人々を救うことができたわ!」
朧月邸の茶室で、綾は心からの笑顔で、二人の友人の手を握った。
香子も芳子も、涙ぐみながら、しかし誇らしげな表情で頷き合う。
彼女たちの、小さな、しかし確かな「力」が、大きな奇跡を生んだ瞬間だった。
この一件は、綾にとって、そして「影詠み乙女の会」のメンバーたちにとって、かけがえのない経験となった。
自分たちの力が、誰かの役に立つ喜び。そして、仲間と力を合わせることの素晴らしさ。
それは、世界の「歪み」がますます深刻化していく中で、彼女たちが持ち続けるべき、最も大切な「光」なのかもしれない。
乙女たちの祈りと友情は、時に、どんな超科学や謎理論よりも、強い力を発揮する。
そして、その温かな光は、やがて来るべき暗黒の時代を照らし出す、希望の灯火となるだろう。
(ただし、晴明くんの「なんちゃって結界」の効果については、未だ検証の余地がある……かもしれない)