第十一話:天才少年の日常、思わぬ失敗と友の声
安倍晴明は、その早熟な才能と鋭敏な感覚から、周囲の大人たちからは「神童」ともてはやされることもあったが、彼自身はそんな評価をどこか冷めた目で見ていた。彼にとって、世界の理を探求することは呼吸をするのと同じくらい自然なことであり、特別なことではなかったからだ。
しかし、そんな晴明も、完璧超人というわけではない。
時折、常人には理解しがたい彼の行動は、周囲から見れば「奇行」と映ることもあり、思わぬ失敗を招くこともあった。
ある秋晴れの日のこと。晴明は、いつものように父・益材の書庫で古い暦の計算に没頭していた。その時、ふと窓の外に目をやると、屋敷の庭の隅にある大きな柿の木に、見事なまでに熟れた赤い実がたわわに実っているのが見えた。
(あの柿……確か、三日月の夜に特定の呪文を唱えながら収穫すると、その年の豊凶を占うことができるという記述が、どこかの古文書に……)
晴明の探究心が、またしても奇妙な方向へと動き出した。彼は、暦の計算もそこそこに、そっと書庫を抜け出し、柿の木へと向かった。
問題は、その柿の木がかなり高く、一番美味しそうに熟れた実は、晴明の手が届かない高い場所にあったことだ。
(うーん、どうしたものか……そうだ!)
晴明は、庭の隅に立てかけてあった竹竿を見つけると、それを器用に操り、柿の実を落とそうと試みた。しかし、普段は星の運行や気の流れといった繊細なものを扱う彼にとって、物理的な力加減は少々苦手な分野だったらしい。
竹竿を突き出した瞬間、狙いが少しずれ、柿の実ではなく、その隣にあった蜂の巣を勢いよく突いてしまったのだ!
「うわっ!?」
次の瞬間、巣から飛び出してきた蜂の大群に、晴明はあっという間に囲まれてしまった。
「た、助けてくれー!」
神童と名高い安倍晴明も、この時ばかりはただの十歳の少年だった。彼は、頭を抱えて庭を逃げ惑い、追いかけてくる蜂から必死で身を守ろうとした。その様子は、普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほど滑稽で、屋敷の女中たちは遠巻きにクスクスと笑いを堪えていた。
結局、晴明は顔や腕を数カ所刺され、父・益材にこっぴどく叱られる羽目になった。
「晴明! お前は何を考えておるのだ! 柿を取るのに、なぜ蜂の巣を突く必要がある! 少しは周りをよく見なさい!」
「も、申し訳ありません、父上……。まさか、あんなところに蜂の巣があるとは……」
しょんぼりと肩を落とす晴明。その姿は、いつもの天才的な輝きは影を潜め、ただの悪戯が失敗した子供そのものだった。
そんな晴明にも、数少ないながら心を許せる友人がいた。
その一人が、同じく宮中に仕える貴族の子弟で、晴明より二つ年上の賀茂光栄だった。光栄は、晴明のような鋭敏な感覚は持っていなかったが、大らかで面倒見の良い性格で、どこか浮世離れした晴明の良い兄貴分のような存在だった。
「やあ、晴明。また父上に叱られたのか? 今度は何をやらかしたんだ?」
数日後、宮中で顔を合わせた光栄は、晴明の顔に残る赤い腫れを見つけて、にやにやしながら尋ねた。
晴明は、少しむっとした表情をしながらも、事の顛末を正直に話した。
「……というわけで、蜂に散々な目に遭ったのだ」
「ははは! それは災難だったな! お前ほど頭が良くても、そういうドジを踏むこともあるんだな。なんだか安心したよ」
光栄は、腹を抱えて笑った。しかし、その笑いには悪意はなく、むしろ晴明の人間らしい一面を見た喜びのようなものが感じられた。
「しかし、晴明。お前がそこまでして占おうとした柿の実は、結局どうなったんだ?」
「……それが、私が蜂に追われている間に、カラスに全部食べられてしまったらしい」
「ぶはっ! そりゃ、踏んだり蹴ったりだな!」
二人の笑い声が、宮中の渡り廊下に響いた。
光栄のような友人の存在は、晴明にとって救いだった。
彼らは、晴明の特異な才能を特別視することなく、一人の友人として接してくれる。そんな彼らと過ごす時間は、晴明にとって、複雑な世界の理を探求するのとはまた違った、穏やかで心地よいものだった。
この一件で、晴明は「いくら知識があっても、実践が伴わなければ意味がない」という、ごく当たり前の教訓を身をもって学ぶことになった。そして、彼の完璧に見えるイメージの裏には、こんなお茶目な一面もあるのだと、周囲の人々に(少しだけ)知られることになったのだった。
それは、天才少年が、少しずつ人間として成長していく過程の一コマだったのかもしれない。そして、彼の探究心は、藤原の小さな姫君が隠す「何か」へと、依然として向けられ続けていた。




