第四話:束の間の安堵、都の傷跡と星詠みの誓い
朱雀門を舞台とした、獣牙の荒野からの最初の本格的な襲撃は、綾と晴明、そして彼らを支える人々の決死の奮闘により、辛うじて退けられた。
空に開いた禍々しい「門」は、隻角の魔将ヴォルフラムが姿を消すと共に閉じ、都には、まるで悪夢から覚めたかのような、重苦しい静寂が訪れた。
しかし、その爪痕はあまりにも深かった。
朱雀大路周辺は、ゴルデアの暴威によって多くの建物が倒壊し、あちこちで火の手が上がっている。逃げ惑う中で負傷した人々、家族とはぐれてしまった子供たちの泣き声が、まだ都のあちこちから聞こえてくる。
そして何よりも、都の人々の心には、これまで経験したことのない、異形の者たちへの恐怖と、世界の終末を予感させるような絶望感が、深く刻み込まれていた。
「……ひどい、わね……」
力を使い果たし、影向衆の弥助と小吉に肩を支えられながら朧月邸へと戻る道すがら、綾は変わり果てた都の惨状を目の当たりにし、唇を噛み締めた。
「影詠み」として、そして「藤原綾」として、この都を守りたいと願ってきた。しかし、現実はあまりにも過酷だ。自分の力が、まだ全然足りていないことを痛感させられる。
「姫様……いえ、影詠み様。どうか、ご無理なさらないでください。今は、お体を休めることが肝要です」
橘が、綾の疲弊しきった様子を案じ、声をかける。彼の顔にも、これまでにないほどの疲労と、そして部下を失ったかもしれないという痛みが滲んでいた。(幸い、影向衆に死者は出なかったが、重傷者は数名いた)
「……ありがとう、橘。でも、休んでいる暇はないわ。ヴォルフラムは言っていた。『本当の狩りは、これからだ』と……。彼らは、必ずまた来る。もっと大きな力を持って」
綾の瞳には、疲労の中にも、決して消えることのない闘志の炎が燃えていた。
一方、安倍晴明もまた、賀茂光栄や「天狐の眼」の仲間たちと共に、後片付けと負傷者の救護に追われていた。
彼の「星霜の霊墨(悪臭風味)」は、意外なことに、獣の傷には消毒効果があるらしく(ただの偶然かもしれないが)、仲間たちはそれを負傷者に塗りたくり、阿鼻叫喚の地獄絵図に、さらなる異臭という名の彩りを添えていた。
「晴明、お前のあの五色の光、一体何だったんだ? あれがなかったら、俺たち、本当にやられてたぞ……」
光栄が、煤だらけの顔で尋ねる。
「……わからん。だが、あの瞬間、確かに『星励光』が、我が魂と共鳴したのを感じたのだ。そして、『影詠み』様もまた、何か、我々と呼応するかのような力を……」
晴明は、先ほどの戦いを思い返し、眉をひそめた。あの黒衣の小柄な術者。その動き、その力の使い方……。どこかで見たような、いや、それ以上に、何か根源的な部分で、自分と通じる「何か」を感じたのだ。
(……影詠み……。彼もまた、『星励光』を操る者なのか? だとしたら、その術の体系は……?)
晴明の探究心は、疲労困憊の中でも、新たな謎へと向かおうとしていた。
宮中では、藤原為時が、今回の襲撃事件の報告を受け、衝撃と怒りに震えていた。
「……異形の獣人どもが、白昼堂々、都を襲うとは……。そして、あの空に開いたという『門』……。もはや、これは単なる怪異ではない! 我が国に対する、明確な『侵略』行為である!」
為時は、帝に事の次第を奏上し、早急な対策を講じるよう進言した。
「宮廷陰陽局の者たち、特に安倍晴明殿の働きは見事であったと聞く。彼らに、より大きな権限と支援を与え、この国難に立ち向かわせるべきである!」
為時の言葉は、もはや反対する者もいないほど、切迫した力を持っていた。今回の事件は、悠長な議論をしている暇などないことを、全ての貴族たちに痛感させたのだ。
数日後。
都は、まだ多くの傷跡を残しながらも、少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
影向衆や、晴明たちの「天狐の眼」、そして都の衛兵や町衆たちの懸命な努力により、火災は鎮火され、負傷者は手当てを受け、そして何よりも、人々は「生き残った」という安堵感から、互いに手を取り合い、復興への意志を固めつつあった。
「影詠み様と晴明様が、俺たちを守ってくれたんだ!」
「あのお二人がいれば、きっと大丈夫だ!」
二人の「英雄」への感謝と期待の声は、都中に響き渡っていた。
綾は、シェルターで、フィラと共に今回の戦闘データを徹底的に分析していた。
「ゴルデアとセツナ……彼らの戦闘能力は、確かに高かった。でも、ヴォルフラムは、それ以上のはずよ。彼の目的は、一体何なのかしら……?」
《マスター、ヴォルフラムの行動パターンからは、単なる破壊や殺戮を目的としているようには見えません。むしろ、何かを『観察』し、『試している』かのような……。彼が言っていた『可能性』という言葉が気になります》
「ええ……。そして、『星の盾』の謎も、まだ解けていない。あれが、彼らの侵攻を防ぐための鍵となるはずなのに……」
安倍晴明もまた、宮廷陰陽局(仮)の、ようやく割り当てられた(しかし相変わらず狭くて薄暗い)執務室で、山のような古文書と格闘していた。
「『星励光』……『影詠み』の印……そして、あの五色の光……。全ては繋がっているはずなのだ! この世界の『歪み』の正体と、それを正すための『真の陰陽の道』を、必ずやこの手で見つけ出してみせる!」
彼の瞳には、七歳の少年とは思えぬほどの、強い決意と、そしてほんの少しの焦りが浮かんでいた。
束の間の安堵。しかし、それは新たな戦いの前の、ほんの短い休息に過ぎない。
隻角の魔将ヴォルフラムは、必ず再び現れる。そして、その時は、今回の斥候戦とは比較にならないほどの、絶望的な戦力で、この都を蹂躙しにくるだろう。
綾と晴明は、それぞれが抱える秘密と、そして互いの存在を意識しつつも(まだ直接的な協力関係には至らないが)、来るべき「その時」に向けて、己の力と知恵を磨き続けることを、心に固く誓うのだった。
都の傷跡は、彼らにとって、決して忘れてはならない戦いの記憶であり、そして未来への誓いの証となるだろう。
朱雀門の戦いは、多くのものを失い、しかし、それ以上に多くのものを残した。
それは、絶望の中に見えた一筋の希望の光であり、そして、二人の若き英雄の、真の覚醒への序曲でもあった。
物語は、さらに深く、そして激しく、その核心へと迫っていく。