其の三十:「朧月邸」攻防戦! 影の訓練と迫りくる真の脅威
綾が六歳と十ヶ月を過ぎた頃。
都に流れ込む「励起光子」の濃度は、フィラの予測通り、緩やかながらも確実に上昇を続けていた。それに伴い、以前のような局地的な「小さな怪異」は減少し、代わりに、都全体を覆うような、得体の知れない「圧迫感」のようなものが、人々の心を重くし始めていた。
それは、まるで巨大な嵐が、静かに、しかし確実に近づいてきているかのような、不気味な予兆だった。
「……このままでは、いずれ本当に『何か』が起こる。それも、これまでの比ではない、大規模な『何か』が……」
秘密の拠点「朧月邸」の作戦室で、綾は都の励起光子分布図を睨みつけながら、厳しい表情で呟いた。
隣に立つ橘もまた、その表情には隠せない緊張の色を浮かべている。
「はい、影詠み様。我ら影向衆も、都の各所に潜む『淀み』が、日増しにその力を増しているのを感じております。もはや、個別の対処では追いつかぬやもしれませぬ」
綾は、決意を固めた。
「橘、影向衆の者たちを集めてちょうだい。これより、『朧月邸』を拠点とした、大規模な『防衛訓練』を開始するわ」
「防衛訓練……でございますか?」
「ええ。いつ、どんな敵が、どこから襲ってくるか分からない。その時に備えて、私たちの連携と、この朧月邸の防衛能力を、最大限に高めておく必要があるのよ」
その日から、「朧月邸」は、さながら秘密の軍事基地のような様相を呈し始めた。
橘の指揮のもと、影向衆のメンバーたちは、それぞれに開発された「ハイテク装備」を身に着け、様々な状況を想定した実戦的な訓練に明け暮れた。
屋敷への潜入者をいかに迅速に発見し、無力化するか。
複数の怪異が同時に出現した場合、どのように連携して対処するか。
そして、万が一、朧月邸そのものが襲撃された場合、影詠み様(綾)をいかに安全にシェルターへ避難させるか――。
綾もまた、「影詠み」として、時折その訓練に参加した。
彼女は、影向衆の動きを観察し、的確なアドバイスを与え、時には自ら「仮想敵」となって、彼らの実戦能力を試した。
「弥助、その『韋駄天の足袋』の跳躍は素晴らしいけれど、着地時の気配がまだ甘いわ。もっと猫のように、音もなく!」
「小吉、その『千里眼の眼鏡』で敵の位置を把握したら、すぐに仲間と情報を共有するのよ! 連携こそが、私たちの力の源なのだから!」
綾の指示は、的確で、そして容赦がない。しかし、その厳しさの中には、仲間たちへの深い信頼と、彼らを必ず守り抜くという強い意志が込められていた。
影向衆の者たちもまた、その期待に応えようと、必死で訓練に励んだ。
彼らにとって、この訓練は、ただの練習ではない。敬愛する影詠み様(そして、その正体である綾姫様)をお護りするための、真剣勝負なのだ。
彼らの練度は、日増しに向上し、その動きは、もはや都のどんな精鋭部隊にも引けを取らないほど、洗練されたものになりつつあった。
しかし、そんな彼らの懸命な努力を嘲笑うかのように、世界の「歪み」は、さらに深刻な様相を呈し始めていた。
ある日、フィラが、シェルターの広域センサーに、極めて異常なデータを捉えた。
《マスター! 都の遥か西方……おそらく、アルビオン王国よりもさらに遠い大陸で、大規模な『励起光子バースト』と、それに伴う『空間の断裂』らしき現象が観測されました!》
「なんですって!?」
綾は、息を飲んだ。
スクリーンに映し出されたのは、衛星画像(もちろんシェルターの技術)が捉えた、遠い異国の、信じられないような光景だった。
大地は裂け、空は赤黒く染まり、そして、その中心には、巨大な「渦」のようなものが現れ、周囲の全てを飲み込もうとしているように見える。それは、まるで世界の終末を描いた絵画のようだった。
《……詳細なデータは不明ですが、この現象により、一つの都市が、完全に消滅した可能性がございます……》
フィラの声が、重く響く。
(……まさか。こんなことが、本当に……? これは、もう『歪み』なんてレベルじゃない。世界の『崩壊』そのものじゃないの……)
綾は、全身から血の気が引くのを感じた。
都で起こっている小さな怪異など、これに比べれば、まるで子供の火遊びのようなものだ。
本当の「影」は、もっと巨大で、もっと恐ろしく、そして、確実にこの世界に近づいてきている。
「橘……」
綾は、震える声で、傍らに立つ執事を呼んだ。
「……はい、影詠み様」
橘の表情もまた、これまでにないほど険しい。彼もまた、フィラから送られてくる映像を見て、事態の深刻さを悟っていた。
「……私たちの準備は、まだ、全然足りないのかもしれないわ……」
綾の言葉は、絶望ではなく、むしろ新たな決意を帯びていた。
「もっと強くならなければ……。もっと、もっと、この世界の理不尽な『歪み』に抗う力を……!」
朧月邸の訓練場に、再び緊張の糸が張り詰める。
影向衆の者たちの目にも、先ほどまでの日常の訓練とは異なる、真の戦いを前にした者の覚悟が宿り始めていた。
忍び寄る本当の影。それは、もはや噂や予感ではなく、紛れもない「現実」として、彼らの目の前に突きつけられようとしていた。
そして、その「現実」に立ち向かうために、彼らは今、持てる力の全てを賭して、備えなければならないのだ。
もっと早く訪れるのかもしれない――。
そんな予感が、綾と橘の胸を、重く締め付けていた。