其の二十六:姫君と執事の秘密の絆、以心伝心のサインと朧月の夜語り
あの日、朧月邸の応接間で、綾の最大の秘密が橘に知られてしまってから、二人の間には、言葉にはできない、しかし確かな絆が生まれていた。
表向きは、これまでと何ら変わりない。綾は藤原家の聡明な姫君として、橘は影詠み様に仕える謎の執事として、それぞれの役割を演じ続けている。
しかし、その水面下では、確かに何かが変わっていた。
例えば、綾が父・為時に伴われて宮中の宴に列席した時のこと。
まだ幼い綾は、きらびやかな衣装を纏った大人たちの間で、少し緊張した面持ちで座っていた。そんな時、ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所に控える橘の姿が目に入った。橘は、他の従者たちと同じように、ただ静かに主の傍らに佇んでいるだけ。しかし、その穏やかな眼差しは、確かに綾に向けられており、「姫様、ご安心を。わたくしがおりますゆえ」と、無言で語りかけているかのようだった。
綾は、その視線に気づくと、ほんの少しだけ口角を上げ、こくりと小さく頷いてみせる。それだけで、不思議と心が落ち着き、緊張が和らぐのを感じた。
まるで、二人だけの秘密の暗号を交わしているかのように。
またある時は、綾が母・藤乃と共に、とある貴族の屋敷での茶会に招かれた時のこと。
その茶会には、少々意地悪なことで知られる年配の女房がおり、彼女は綾の幼さにつけ込んで、わざと難しい作法や、答えに窮するような問いを投げかけてきた。綾が困っていると、どこからともなく、橘が「奥様、お茶のお代わりはいかがでございますか?」などと、絶妙なタイミングで割って入り、その女房の注意をそらしてくれるのだ。
そして、その隙に、綾の耳元にだけ聞こえるような小さな声で、「姫様、あの問いには、こうお答えになればよろしゅうございます」と、的確な助言を囁いてくれる。
綾は、その完璧なサポートに内心で感謝しつつも、(橘さん、どこで見てたのかしら……? もしかして、影向衆の人たちが、こっそり見張ってる……?)と、その手際の良さに少しだけ背筋が寒くなるのだった。
これらの「表の顔」での出来事は、夜、朧月邸で「影詠み」として橘と顔を合わせる際に、ささやかな話題となることもあった。
「……橘、今日の茶会、ありがとう。助かったわ」
綾が、少し照れたように言うと、橘は穏やかに微笑んで答える。
「とんでもございません、影詠み様。姫様がご不快な思いをなさらないよう、お守りするのがわたくしの務めにございますから」
そして、時には、綾が昼間の「お姫様生活」でのちょっとした愚痴(「和歌の宿題が難しすぎるのよ!」とか「琴の練習で指が痛いわ……」とか)をこぼすと、橘はそれを優しく受け止め、時には的確なアドバイスをくれたり、時にはただ黙って話を聞いてくれたりした。
それは、綾にとって、これまで誰にも言えなかった「普通の女の子」としての悩みを、安心して打ち明けられる、貴重な時間となっていた。
六歳の少女が抱えるにはあまりにも大きな秘密と責任。その重圧を、橘は少しでも和らげようと、常に心を砕いていたのだ。
「そういえば、橘。この間、お父様の書斎で、アルビオン王国の使節団が残していったという、奇妙な『機械仕掛けの鳥』の設計図のようなものを見つけたのだけど……」
ある夜、綾はふと思い出したように、橘に話しかけた。
「ほう、機械仕掛けの鳥、でございますか」
「ええ。とても精巧なものだったわ。この国の技術では、到底作れそうもないような……。もしかしたら、あれも励起光子を利用したものなのかもしれないと思って」
「なるほど……。異国の技術も、侮れませんな。もしよろしければ、その設計図、わたくしの方でも一度拝見し、影向衆の者たちに分析させてみましょうか? 何か、我々の活動のヒントになるやもしれません」
「本当? ありがとう、橘! さすがは頼りになるわ!」
綾は、心からの笑顔を見せた。
秘密を共有したことで、綾と橘の間の信頼関係は、より深く、そして温かいものへと変わっていた。
橘は、綾の「影詠み」としての類稀なる才能と、その裏にある「藤原綾」としての純粋さ、そして時折見せる子供らしい脆さを、全て理解した上で、彼女を支えようとしている。
そして綾もまた、橘の揺るぎない忠誠心と、深い愛情に包まれながら、少しずつではあるが、自分の秘密と向き合い、そして「普通の子」として成長していく勇気をもらい始めていた。
もちろん、彼らの日常には、依然として危険が潜んでいる。
世界の「歪み」は確実に進行しており、都の平和は常に脅かされている。
しかし、少なくとも綾は、もう一人ではない。
信頼できる執事と、彼が率いる影の仲間たち。そして、遠い亜空間で常に彼女を見守るフィラ。
その絆こそが、やがて来るべき大きな試練に立ち向かうための、何よりも強い力となるだろう。
朧月邸の窓から見える月は、今夜もまた、静かに都を照らしている。
その月明かりの下で、小さな姫君と老練な執事は、言葉少なながらも、確かな信頼で結ばれた、穏やかな時間を過ごすのだった。
七歳の誕生日まで、あとわずか。
嵐の前の静けさは、彼らにとって、かけがえのない宝物のような時間なのかもしれない。