其の二十二:七歳の足音、姫君の決意と迫りくる「その時」への序章
都には、依然として不気味な静けさと、そして時折顔を出す小さな怪異の影が漂っていたが、それでも人々は、日々の暮らしを懸命に営んでいた。
綾の「お姫様教育」も、ますます本格的になり、彼女は表向きには、非の打ち所のない優雅で聡明な姫君として、周囲の期待に応え続けていた。
しかし、その胸の内では、かつてないほどの緊張感と、そして静かな決意が燃え上がっていた。
二年後――。
「獣牙の荒野」の者たちが、本格的にこの世界へ侵攻してくるかもしれないという、フィラからもたらされた断片的な情報。そして、日々濃くなっていく「励起光子」の気配と、それに伴う世界の「歪み」。
綾は、残された時間が決して多くないことを、誰よりも強く感じていた。
(……もう、ただの「お姫様ごっこ」をしている場合じゃないわね)
綾は、和歌の師匠の前で、美しい所作で墨をすりながらも、頭の中ではシェルターの防御システムの最適化と、新たな「対怪異用兵装」の設計図を組み立てていた。
その集中力は凄まじく、時折、師匠が「綾様、本日の歌題は『秋の夕暮れ』でございますよ。……月の国の戦記ではございませんからね?」と、苦笑しながら声をかけるほどだった。
(バレてる……!? いや、まさかね……)
綾は、慌てて意識を現実に戻し、優雅な笑みを浮かべる。
琴のお稽古でも、綾は密かに「鍛錬」を積んでいた。
師匠に教わる典雅な曲を奏でながらも、その指先には、励起光子のエネルギーを微量に集束させ、それを精密にコントロールする訓練を行っていたのだ。
(……この弦の振動周波数を、もっと高めれば……指向性の衝撃波として使えるかもしれないわ。もちろん、音は出さずにね)
時折、琴の弦が、パチン、と不自然な音を立てて切れることがあったが、綾は「あら、わたくしとしたことが」と、しれっとした顔で新しい弦に張り替えるのだった。師匠は、姫様の意外な怪力(?)に、ただただ首を傾げるばかりだった。
妹のたかこは、相変わらず姉の綾を、尊敬と好奇の入り混じった眼差しで見つめていた。
「お姉様、最近、なんだかとても……強くなられたような気がいたしますわ」
ある日、たかこがぽつりと言った。
「え? そ、そうかしら?」
綾は、ドキリとしながらも、平静を装った。
「はい。以前よりも、ずっと遠くを……そして、何か大きなものを見ていらっしゃるような……。まるで、物語に出てくる、国を守るお姫様のようですわ」
たかこの純粋な言葉は、綾の胸に深く突き刺さった。
(……国を守る、お姫様……。私に、そんなことができるのかしら……)
橘香子たち「影詠み乙女の会」のメンバーもまた、綾の変化に気づいていた。
「綾姫様、最近ますますお美しく、そして凛々しくなられたわね!」
「なんだか、本当に『影詠み様』の気高さが、綾姫様にも宿っているみたい!」
(……いや、だから、同一人物だって言ってるじゃないの……って、言えないけど!)
綾は、彼女たちの見当違いな(しかしある意味的を射ている)称賛に、もはや苦笑するしかなかった。
そして、執事の橘と「影向衆」は、影詠み様の活動が、より本格化し、そして危険なものになっていくであろうことを察し、これまで以上に警護体制を強化し、情報収集に力を入れていた。
「朧月邸」には、綾が開発した様々な「秘密兵器」が、いつでも出撃できるように整備され、そして、都の各地には、彼らの目と耳が、蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
彼らの、その忠誠心は、もはや揺らぐことのないものとなっていた。
七歳の誕生日が、刻一刻と近づいてくる。
それは、綾にとって、単に一つ歳を重ねるということ以上の、大きな意味を持っていた。
1日でも早く。自分はどこまで成長できるのか。そして、この世界を、大切な人たちを、本当に守りきれるのか。
不安がないわけではない。しかし、それ以上に、綾の心には、強い使命感と、そして未知なるものへの挑戦意欲が燃え盛っていた。
(……大丈夫。私には、フィラがいる。橘さんや影向衆の皆もいる。そして、太古の叡智と、このシェルターがあるわ)
綾は、夜空に浮かぶ、不気味な赤いオーロラを見上げながら、静かに拳を握りしめた。
(そして、もしかしたら……あの、ちょっぴり残念だけど憎めない、星詠みの少年も……いつか、共に戦う日が来るのかもしれないわね)
そんなことを考えると、ほんの少しだけ、心が軽くなるような気がした。
嵐の前の二年。
それは、一人の少女が、真の「守り手」として覚醒するための、最後の準備期間。
そして、その幕開けを告げる、七歳の誕生日が、もうすぐそこまで迫っている。
物語は、いよいよ大きなうねりの中で、新たな章の扉を開こうとしていた。
綾の、そしてこの世界の運命は、果たして――。