第九話:橘の姫君が見た、不思議な藤原の綾姫
橘香子は、今日の茶会を心待ちにしていた。
母である左大臣家の奥方・楢子が主催するこの集まりは、美味しいお菓子がたくさん食べられるし、同じくらいの年の姫君たちと遊べる貴重な機会だからだ。特に、今日は中務卿・藤原為時様の姫君、綾姫様もいらっしゃると聞いて、香子は少し緊張しながらも楽しみにしていた。噂では、綾姫様は大変お美しく、そしてお利口なのだという。
「香子、くれぐれも粗相のないように。藤原の姫君は、あなたよりお小さいけれど、とてもしっかりなさっていると評判なのですよ」
母の楢子にそう言い含められ、香子はこくりと頷いた。
茶席で初めて間近に見た綾姫様は、噂通り、まるで人形のように整った顔立ちをしていた。絹の小袖もよくお似合いで、年の割には驚くほど静かで落ち着いている。香子より二つも年下のはずなのに、その佇まいはどこか大人びて見えた。
(本当に、お人形さんみたい……)
それが、香子の最初の印象だった。
母親たちが談笑を始め、子供たちが集められると、香子は勇気を出して綾姫様に声をかけた。
「あなた、藤原の綾姫様でしょう? 私は橘の香子と申しますわ。一緒に遊びましょう?」
綾姫様は、一瞬、びくりとしたように見えたが、すぐに小さく頷いてくれた。その瞳は、どこか遠くを見ているようで、何を考えているのか少し分かりにくい。
おままごとが始まると、綾姫様の不思議さが際立った。
他の姫君たちがきゃっきゃとはしゃぐ中、綾姫様はほとんど口を開かず、ただ静かに周りの様子を伺っている。お母様役を頼んでも、赤ちゃん役を頼んでも、ただ黙って頷くだけ。でも、頼まれたことはきちんとこなすし、人形を抱く手つきも、なぜかとても優しく見えた。
「綾姫様って、なんだかお人形さんみたいね」
隣にいた別の姫君が小声で囁くのを聞いて、香子も頷いた。
(うん、喋らないけど、見てるだけで綺麗だから、いいの)
香子はそう思った。
しかし、しばらく遊んでいるうちに、香子は綾姫様の別の側面に気づき始めた。
例えば、皆で積み木を高く積んでいた時。一番上に小さな木片を乗せようとして、グラリと崩れそうになった瞬間、綾姫様が誰よりも早く、スッと手を差し出して支えたのだ。その動きは驚くほど素早く、的確だった。
また、誰かが持ってきた美しい紐が複雑に絡まってしまい、誰も解けずに困っていた時も、綾姫様はしばらくじっと紐を見つめた後、いとも簡単にスルスルと解いてしまった。
「わあ、すごい! 綾姫様、どうやったの?」
皆が感嘆の声を上げても、綾姫様はただ小さく微笑むだけだった。
気づけば、香子も他の姫君たちも、何か困ったことがあると、自然と綾姫様に助けを求めるようになっていた。
「綾姫様、この絵合わせ、どこが違うのかしら?」
「綾姫様、このお花、なんていう名前?」
綾姫様は、相変わらず口数は少ないけれど、尋ねれば的確に教えてくれたり、そっと手助けしてくれたりする。その姿は、まるで小さな先生のようで、とても頼りになった。
(綾姫様って、ただ静かなだけじゃないんだ……すごく物知りで、頭がいいんだわ)
香子は、綾姫様に対する印象を改めていた。最初は「綺麗なだけのお人形さん」だと思っていたけれど、今はもっと違う、何か特別なものを感じる。
一方、母の楢子は、遠巻きに子供たちの様子を眺めながら、隣に座る藤乃様に感心したように話しかけていた。
「藤乃様、綾姫様は本当に素晴らしいお子様でいらっしゃいますね。あんなにお小さいのに、少しも騒がず、周りのお子様たちの面倒まで見ていらっしゃるご様子。うちの香子など、まだまだ落ち着きがなくて……」
藤乃様は、「いいえ、綾もまだまだ手のかかる子供でございますわ」と謙遜していたが、その表情はどこか誇らしげに見えた。
楢子は、内心で(うちの子も、少しは綾姫様を見習って、もっと落ち着きと賢さを身につけてくれれば良いのだけれど……)と、我が子への期待と、藤原家への僅かな羨望を感じていた。
茶会が終わり、綾姫様が帰っていく姿を、香子は名残惜しそうに見送った。
(また綾姫様と遊びたいな……今度は、もっとたくさんお話してみたい)
綾姫様の不思議な魅力は、香子の心に強く残った。
その夜、香子は母に尋ねた。
「お母様、藤原の綾姫様って、どうしてあんなに物知りなのかしら?」
楢子は少し考えてから答えた。
「きっと、藤原様がお小さい頃から良い教育をなさっているのでしょうね。そして、綾姫様ご自身も、学ぶことがお好きな賢いお子様なのだわ。香子も、綾姫様のように、色々なことに興味を持って学ぶのですよ」
香子はこくりと頷いた。綾姫様のようになれるかは分からないけれど、自分ももっと賢くなりたい、と強く思った。
この日の出会いは、香子にとって、少し年下の不思議な姫君への憧れと、自分自身の成長への小さなきっかけとなった。そして、綾姫様の「普通ではない」魅力は、香子のような「普通」の子供の目を通して、また違った形で周囲に波紋を広げ始めていたのかもしれない。




