二
都内S区神去四丁目。
雑居ビルが立ち並ぶ区域の中に、年代を感じさせる四階建てのビルがあった。
一階から三階の窓には古びて色あせているテナント募集中の張り紙が張られており、集合看板は空白だ。
唯一使用されているらしい四階の看板には、『口縄心霊相談所』と書かれている。
その看板を確認し、ビルに足を踏み入れる。
女性は二十代中頃に見えた。背は低く、身に着けているスーツには若干着られているような印象を受ける。
かつ、かつと靴音を鳴らしながら階段を登り、どうしてエレベーターが無いのだろうと内心愚痴を吐きながら目的の階まで辿り着く。
まず短い廊下があり、右手側に狭いフロアがある。そこは給湯室になっていた。廊下の奥には古びた鉄扉があり、そこには『口縄心霊相談所』と手書きされた木の看板が張り付けられていて、その下には『幽霊、怪異、呪い、■に係わる事、なんでも解決いたします』と書かれた張り紙があった。■の部分は文字が滲んで何と書かれていたのか判別がつかない。
ごんごん、と扉をノックしてみれば、少しの静寂の後、軋んだ音を立てながら扉が開かれる。
「……なにか」
扉を開けてくれたのは不愛想な男性だった。
短い黒髪を緩く整え、礼服に身を包んだその男の年齢はよく分からないが、顔立ちは若いように思える。しかし、落ち着き払ったその雰囲気は壮年のものにも感じられた。
体格は良いようだが、肌は不健康なほど白い。堀が深めの整った顔立ちと相まって彫刻のような印象を受けた。だが、黒い瞳を収めている目の下にはくっきりとした隈があり、初対面だというのについ心配する言葉をかけそうになる。
「あ、あの、えっと」
「……」
「よ、予約していた峰草です!」
名前を告げれば、男は体を横にずらし、「どうぞ」と小さく告げた。
峰草はそっと事務所内に足を踏み入れた。
対面するように置かれたふたつの古びた合皮のソファと、ソファに挟まれて設置されている安物らしい机がまず目に入る。デザインに統一性はなく、とりあえずそれらしいものを置いてみただけなのだろうと感じられる。
それらの奥にはこれまた年季の入った木製のデスクが扉と正面になるように置かれていて、そこにはくたびれた礼服姿の男が佇んでいた。
癖のある髪は大半が白く、毛先や中途半端な位置に斑に黒髪が混ざっている。少し長いらしい後ろ髪は無造作に一つに結ばれている。前髪も長く、目元を完全に覆ってしまっていた。顎には無精髭が生え、口角はなにか面白いのだろうか、緩く開いた状態で上がっている。その隙間から見える犬歯は鋭い。
だらしなさを全身で表しているその男はゆっくりと立ち上がった。座っていたオフィスチェアがきぃ、と鳴る。
立ち上がってみると、男の身長はかなり高く、百九十を超えていることがわかる。小柄な峰草は彼を見上げ、ちいさく口を開けてしまった。
「ああ、どうも、どうも。いらっしゃい。そちらに座って。贄田くんはお茶を頼むよ」
峰岸は勧められた通りソファに座り、贄田と呼ばれた男が事務所から出ていくのを横目に事務所内を見回す。
壁は灰色のペンキで塗られ、薄暗い蛍光灯で照らされている。右手奥側に扉がひとつあって、関係者以外立ち入り禁止の張り紙がされていた。
反対側の壁にはボロボロになった粗大ごみ回収のシールが貼られた学習机とパイプ椅子が置かれていて、その上には古い型のデスクトップパソコンが設置されている。
部屋の一角に神棚が鎮座しており、木箱が置かれているのが目に入る。
「あれが気になりますかね」
対面のソファに座る男に声を掛けられ、峰草は姿勢を正す。
「はい。まあ……気になりますが。それよりも、ええと、あなたが口縄さん?」
「そうですとも。所長の口縄 カガチです。ご予約の、ええとなんだったかな。その辺は贄田くんが把握しているもんで」
「峰草です。Webメディアのライターをしています」
峰草は名刺を取り出して差し出す。
「オカルトメディアサイト『異界プレス』の峰草 真紀菜さん。ああ、異界プレスなら知っていますよ。何度か読んだことがある」
「ほんとうですか!これ、私がはじめて書いた記事なんですよ!」
「無料の範囲だけですが。サブスク、でしたかね。あれをしようとすると贄田くんに怒られるもんで」
口縄はやれやれと肩を竦める。
「それで、そのライターさんがどんな依頼ですかな。憑りついている霊を払ってほしいとか?」
促され、峰草は話し始めた。
「いえ、除霊とかそういった類のお願いではなくてですね……。最近話題の『うぶごえトンネル』というものがありまして。正式名称は旧金染トンネルですね。うぶごえトンネルっていうのは心霊スポットとしての通称みたいなものです。私はそこを特集記事で取り扱ったことがありましてね。今回さらに記事を書くために心霊関係の専門家の方にご意見をいただこうと思ったわけです。つまり、現地調査の依頼ですね」
峰草は鞄から一つファイルを取り出す。中には印刷したらしい『うぶごえトンネル』の特集記事が挟まっていた。
「おお、ありがたい。この記事は有料だから読めなかったんですよ」
「あはは……」
嬉々として記事を読み始める口縄につい乾いた笑い声を漏らすが、彼は全く気にしていないようだ。
「トンネル内に赤ん坊の声が響く、追いかけられる、車の窓に赤ん坊の手形がついている……心霊スポットで良く起きるような現象ですな……おや、これは」
ぺら、と記事をめくると手書きで付け加えられたメモがあった。
そこには『赤ん坊の霊に憑りつかれ、胎に宿る?』とある。
「ああ、それ。この記事を出した後にSNSで反応を見ていた時に見つけたものです。実際うぶごえトンネルに行った後に腹部に違和感を覚えるようになった人が何人かいるみたいで。……憑りつかれたんじゃないかって私は思ったんです」
「なるほど。僕も調べてみたいですが、SNS……も禁止されているんですよねぇ」
はぁ、と口縄はため息を吐いた。
「……その、贄田さん?にですか?」
「その通り。彼は僕の助手の贄田 供くん。厳しいんですよ。頭も固いし……」
「依頼人に愚痴とはいいご身分だな」
静かに贄田が戻ってきていた。
口縄を軽く睨みつけた後、お盆に乗せてきた湯呑を配置した。それを終えると口縄が座るソファの後ろに立ち、置物のように待機する。
暫し沈黙が流れ、口縄が誤魔化すように咳払いした。
「えー、現地調査の依頼ですね。受けましょう。他に仕事もありませんし、今日にでも向かってみますよ」
それはいいのだろうか、と思いつつも峰草は礼を言う。
「ありがとうございます」
「依頼料に関してなんですが、調査かぁ、あー……いち」
一万円くらいでいいか、と言おうとした口縄が一度口を閉じる。
贄田が先ほどよりもずっと強く口縄を睨みつけているのを背中で感じたらしい。
「三……いやっ、五万円、交通費別ぅ……でいい?」
口縄は依頼人である峰草ではなく、助手の贄田に確認を取る。贄田はまだ少し納得していない様子だが、渋々頷いた。
提示されて金額以下で頼むのは絶対に無理なのだろうと峰草は悟った。
「そ、それでお願いします」
「ははぁ、すみませんね。調査が終わったらこちらから連絡しますのでね、はい。来れる時に来てください」
「はい、では……」
峰草は荷物をまとめ、何度か贄田に視線を向けた後に事務所を立ち去った。
「二週間ぶりの仕事だね。これでひもじい思いをせずにすむんじゃないかな」
「記事に事務所の事を載せてもらえれば評判があがるかもしれない。真面目にやるぞ。事前調査はしておくから、お前は……そこで座って所長としての威厳でも出しておけ」
「任せて」
所長席で腕を組み胸を張っている口縄を横目に、贄田は古い型のデスクトップパソコンを立ち上げた。