二
「退屈と空腹は耐えるべきじゃない、そう思わないかね贄田くん」
某都S区神去四丁目に存在する雑居ビル。四階建てのそのビルの、唯一使われているフロア。『口縄心霊相談所』はここ一カ月ほど閑古鳥が鳴きに鳴いていた。
所長である口縄 カガチは、所長席で椅子に背を預け、長い足を上げたり下げたりしながら不満を漏らしている。
「暇だ。空腹だ。暇だ。空腹だ。空腹。どうしようか。このままだと死んでしまうよ」
じっとりと絡みつくような視線は、前髪で隠れているにもかかわらず感じ取れるものだった。
その視線を向けられているのは、彼の助手である贄田 供だ。不満を垂れる口縄を気にも留めず、事務所内の清掃をしている。
「暇と空腹ごときでお前が死ぬわけないだろ」
そう冷たく言い放ち、口縄の足元に掃除機をかけはじめる。
「いて、いて、ぶつけるんじゃないよ」
「じゃあ足をあげておけ」
「……今日は少し生意気な日だね」
口縄が、椅子に預けていた体を起こす。
人より少しばかり長い腕を伸ばし、贄田の襟首を掴み引き寄せる。突然のことにバランスを崩し、贄田は倒れこむように口縄の腕の中に納まった。
「暇も空腹も、今すぐどうにかしてもいいんだけどな」
言葉と同時に、口縄は贄田の白い首筋をその鋭い犬歯で軽く噛んだ。贄田は体をびくりと震わせ、怯えと嫌悪の混じった表情になる。
「……は、なせ」
口縄の腕の中から逃れようとするが、その細腕のどこにそんな力があるのか、抜け出すことができない。まるで、蛇に巻き付かれた獲物のように、ほんの僅かな身じろぎすらままならない。
かぱ、と口縄が大きく口を開けた。贄田は諦めたように目を閉じ、襲い来るであろう痛みに耐えようとした、のだが。
錆びた鉄扉が軋む音がした。
口縄心霊相談所の扉がノックもなしに開かれ、無遠慮な来訪者が一人入り込んできた。
「おおっと、タイミングが悪かったか?」
わざとらしく驚いた反応をする来訪者は、三十代後半から四十代前半程度の男だ。カーキ色のロングコートの下に皺のある地味なスーツを着て、靴はスニーカーだった。短く切られたこげ茶色の髪には寝ぐせが付いたままだ。垂れた目に重めの瞼は眠たそうな印象を与えている。顎には無精髭が生えていて、頬には刃物か何かで切られたのか、真っ直ぐな傷が一つあった。
「あら、ヤマさぐぅえっぶっっっっ」
訪問者が来たことで口縄の拘束が僅かに緩んだ隙に、贄田はその鳩尾に思いきり肘を入れた。油断していた口縄は悲鳴をあげて後ろに倒れ、贄田は急いで彼と距離を取った。
「……お久しぶりです。山垂さん」
片手を軽く上げて応える男――山垂。彼はごく自然に来客用ソファにどっかりと腰をおろした。
「急に来ちまって悪いね。茶はいらねぇよ。……元気してたかいニエくん」
「いえ、丁度仕事が来なくて困っていたところですので。元気……は、いつも通りです」
「そりゃよかった。邪魔したわけじゃなさそうだな」
「はい。むしろ来てくださってよかったです」
贄田の言葉に、山垂はにっと笑った。
「いたた。ひどい目にあった」
ようやく痛みがましになったらしい口縄がふらふらと山垂の対面のソファに座った。
「ヘビさんも元気そうで」
「そう見えますかねぇ。ところでこんな昼間に来るなんて、刑事さんは暇なんですかね」
「いやいやまさか。仕事に追われてるからこそここに来たんだよ」
山垂はやれやれと肩を竦め、首を横に振る。
「怪奇現象の専門家だって思われちまってるもンでさぁ。署内で何て呼ばれてるか?心霊刑事だとよ」
心霊刑事。山垂は神去署内で呼ばれているが、彼はオカルトに興味はないし、霊感もない。ならばなぜそう呼ばれているか。きっかけは数年前に起きた事件だった。
ある一家の夫婦が殺害され、五歳の息子が行方不明になった事件。夫婦はリビングで一塊にされて亡くなっており、息子は何の痕跡も残さず消えた。
当時この不可解な事件の担当だった山垂は、どうしたものかと事件の事半分、競馬の事を半分頭の中で考えながらうろついていたところ、偶然口縄心霊相談所の看板を発見。彼が信じているもののひとつ、己の直感とやらに従い事務所を訪ね、守秘義務など知ったことかとばかりに事件について話し、依頼したところたちどころに息子を発見し、連れ戻してきた。
『この子、神隠しされていたみたいですねぇ』
などと言いながら、破損した木彫りの猿を模した像を渡され、結局犯人は捕まらなかったが息子は無事保護することができた。
それ以来、なぜか不可解な事件が山垂に回され、そのたび山垂は口縄心霊相談所を尋ねるようになった。ちなみに、協力を要請していることは誰にも言っておらず、すべて山垂が解決したことになっている。
「ははは。そう呼ばれて仕事を回されているおかげでお給料が増えたんでしょう?」
「まあな。だからさあ、今回も頼むよ。報酬は多めに出すからさ」
「それを言われると贄田くんが喜ぶから断れないんですよねぇ……」
ちら、と贄田に視線を向ければ、まだ依頼内容を聞いてもいないのに「受けろ」と言わんばかりに力強く頷かれる。
「それじゃあヤマさん。依頼内容を聞かせていただきましょうか」
「よっしゃ。まず、現場なンだが、『神去学園高等学校』だ。被害者は一年の生徒、田知花 壮真。屋上で何者かに首を絞められ、意識が戻らない……ンだが、いろいろとまぁ不可解でね」
「ほうほう、どのように?」
「まず、屋上には田知花以外にも生徒がいた。そいつらが言うには突然田知花の体が浮いて、苦しんで、それから急に地面に落ちたっつーんだよ。どいつもこいつも恐慌状態で話は支離滅裂だったが、全員似たような事は言っていた。次に、被害者の状態なンだが……首にくっきり扼痕が残っていた。だが、それがだなぁ……随分とでかい手の痕だったよ。片手で首を一周できるほどのな」
山垂は自身の首に片手をかけ、締めるような動作をした。
「屋上にいた生徒の一人が教師を呼び、その後教師が救急に連絡し病院に搬送。一命は取り留めたが意識は戻らず。屋上にいた生徒たちに事情聴取したが、証言はさっきの通り。口裏合わせてるってワケでもなさそうなンだよなぁ……」
「その生徒たちの中に犯人はいないと?」
「そりゃ、あんな痕つけるような手を持ってる奴はいないし、わざわざそんな痕つくように締める意味も分からん。ただ、なぁ」
少し気まずそうに、山垂は頬を掻く。
「その、教師に知らせてくれた生徒なンだが、田知花とその友人たちに虐められてたって話があってな。恨まれてはいたんだよ。屋上にいたのも、その生徒に暴力を振るうためだったらしい。本人の証言と、怯えたやつらが口滑らして話してくれたんだよ。ただ、その生徒が何かしたって証拠も何もないけどな」
「動機はあれど、かぁ。ま、生徒たちの証言が真実なら、不可解な事件、ですねぇ」
「だろ?そういうわけだから、調査頼むよヘビさん。今ンとこ、学校は事件のことは伏せて平常通りやってるみたいだ。話は通しておくから、遠慮なく調べてくれや」
「ああ、それはありがたい。私たちみたいなのが高校に行っても不審者扱いされるでしょうからねぇ」
口縄の言葉を山垂は否定せず、「俺もよく職質されるからなぁ、刑事なのに」と笑っている。贄田は「このだらしないおっさん二人と一緒にされたくない」と思った。




