17 ネフィリム
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闇が弾けた。
視界が広がる。
冷たい風が頬を撫で、わずかに波の音が耳に届く。
地底湖の前だった。
強制終了の影響で、最後にいた場所へと戻されたのだろう。
探偵は軽く瞬きをして、自分の体を確認する。
——異常なし。
視界の端に並ぶステータスも、装備データも、すべて元通りだ。
まるで何事もなかったかのように、この仮想の世界は整然としていた。
「……お前、本当に戻ってきやがったな」
宙に浮かぶ小さな影が、ふわりと揺れた。
エコーだった。
探偵の正面に浮かびながら、エコーは肩(?)をすくめた。
「……いや、別に心配してたわけじゃねえぞ?」
「そうか」
「ただまあ……、普通、ああなったらしばらく慎重に様子を見るもんだろ? バカか、お前」
「慎重に様子を見てる場合かどうか、確かめに戻ってきたんだがな」
探偵が淡々と応じると、エコーは両手(?)を上げて天を仰いだ。
「……もう、知らねえぞ」
探偵は軽く足元を鳴らし、視線を湖へ向ける。
水面は静かで、どこまでも暗い。
しかし、ここには確かに"何か"がいる。
強制終了の直前、探偵は"それ"に接触した。
消えたはずのデータ。
けれど、完全には消えていない"何か"。
【ネフィリム】
「……これを"削除データ"と呼ぶのも、そろそろ面倒だな」
エコーがわずかに揺れた。
「……?」
探偵は短く息を吐き、湖面を見つめながら続けた。
「名前をつける。"ネフィリム"だ」
風が、静かに流れた。
エコーが少し間を置いて、戸惑ったように揺れる。
「おい、いきなり命名かよ」
「扱いやすいほうがいい。俺の頭の中でもな」
静寂が広がる。
探偵は手をポケットに突っ込み、静かに湖を見つめた。
「——ネフィリム」
その名を呼んだ瞬間、湖の水面が、音もなく揺れた。
わずかな波紋が広がり、光を散らす。
そして——
"それ"は、静かに姿を現した。
エコーが硬直する。
「っ……おいおい、本当に出てきたぞ!?」
探偵は、エコーの反応を横目で見ながら小さく笑った。
「当然だ。俺が"見える"ようにしたんだからな」
エコーが驚いたように、ふわりと浮遊する。
「……どういうことだ?」
探偵はゆっくりと視線を湖に向けた。
水面に浮かぶ、"ネフィリム"。
それは、どこからともなく現れ、そこにあるものだった。
削除され、消えたはずのデータの名残。
探偵は口元に手を当て、静かに言葉を続けた。
「ログアウトしてる間に、運営に頼んで"削除データの痕跡を可視化するツール"を作ってもらったんだよ」
エコーがぴくりと揺れた。
「……そんなことができるのか?」
「ゲーム運営の権限があればな」
探偵はゆっくりと湖を見つめる。
かつて見えなかった"何か"が、今はこうして可視化されている。
「さて、ここからが本題だ」
「ネフィリムの正体を、解き明かそうか」
---
【欠けていく存在】
ネフィリムが静かにそこに"いた"。
湖面に浮かぶそれは、輪郭を曖昧にして、揺らぐように存在している。
定まらない形。まるで霧が光を吸い込んでいるような、あるいは、何かの残像が不安定に定着しているような。
——何かが崩れている。
少しずつ、欠け落ちるように。
"存在"を保とうとする意志とは裏腹に、僅かずつ削がれていく。
それは、見る者に一種の不安をもたらす不確かさだった。
エコーがふわりと揺れる。
「……これ、本当に"いる"のか?」
探偵は短く息を吐いた。
「見えているなら、いるんだろう」
「……けど、なんつーか、あやふやすぎねえか?」
エコーの言葉に探偵は頷く。
その通りだ。
"そこにいる"という確信が持てない。
それなのに、"いない"と断言することもできない。
探偵はポケットから手を抜き、静かに湖面のネフィリムを見つめた。
「……修復不能なほど、データが壊れかけているんだろう」
エコーが小さく揺れた。
「データが……壊れてる?」
探偵は視界の端に映るネフィリムを見ながら、淡々と続ける。
「本来、削除されたデータは完全に消える。しかし、こいつは"削除されきれなかった"。消える途中で、何らかの要因で不完全な状態のまま、この世界に残ってしまったんだ」
エコーは沈黙しながらネフィリムを見つめた。
探偵は一歩、湖の縁へと近づく。
水面に映るネフィリムの輪郭が、わずかに揺らぐ。
探偵はその微かな変化を見ながら、言葉を紡ぐ。
「ゲーム内で幽霊騒動が起こった原因……それは、こいつだろう」
エコーがびくりと揺れる。
「……待てよ。つまり……」
「ああ。消えたくないというデータの塊。それにプレイヤーが接触し、脳が処理しきれずにオーバーフローを起こした」
探偵は淡々と続けた。
「思考がまとまらなくなる。意味不明なことを口走る。名前が思い出せなくなる。"存在"に影響を受けて、認識そのものが揺らぐ。そういうことだろう」
エコーがふわりと浮かぶ。
「……マジかよ」
「感受性の高い人ほど、影響を受けやすいだろうな」
探偵は静かにネフィリムを見つめた。
その存在は、既に限界だった。
崩れている。
消えかけている。
——あと、どのくらい"ここに"いられるのか。
ふと、ネフィリムが、かすかに動いた。
音もなく、淡く揺らぎながら。
『……あなた……は……?』
探偵の眉がわずかに動く。
それは"声"というよりも、響きだった。
音としての明確な発声ではなく、頭の中に直接染み込むような、不確かなもの。
エコーがふわりと浮遊し、揺れる。
「……喋った?」
探偵は静かに頷いた。
言葉の輪郭はぼやけている。
しかし、それでも"意味"は伝わった。
ネフィリムが、ふわりと淡く揺れる。
『……消えたくない……でも……もう……』
——もう、限界だった。
探偵は、軽く目を伏せる。
「……そっか」
消えたくないと願いながらも、削除の流れには逆らえない。
存在は不完全で、崩壊は止められない。
どんなに足掻いても、消えるものは消えていく。
探偵が何か言葉を探す前に、ネフィリムは微かに揺れ、淡くなった。
『——ありがとう』
その言葉を最後に、ネフィリムは音もなく、消えた。
静寂。
風が、湖面を揺らす。
波紋が広がり、光を反射していた。
探偵はしばらくその場を動かず、ただ消えた場所を見つめていた。
エコーが小さく動く。
両手(?)を少し上げ、静かに湖面を見下ろしていた。
「……なんか、やべえもん見ちまった気がするな」
探偵はふっと笑った。
「お前が言うか?」
エコーが小さく肩(?)をすくめた。
湖面は、何事もなかったかのように静かだった。
けれど、確かに"そこにいた"。
ネフィリムは、確かに存在していた。
探偵は静かに息を吐くと、エコーへと視線を向けた。
「……さて」
エコーがピクリと揺れる。
探偵は、じっとエコーを見つめたまま、静かに口を開いた。
「次は、お前の話をしようか」
エコーが硬直する。
空気が、わずかに張り詰めた。




