16 強制終了
【跳躍】
「管理者権限がないと解析できない」
エコーの言葉が、どこか勝ち誇ったように響く。
湖の中央、そこにあるはずのない"存在"が、データ上そこにいる。波紋もなければ、影すら落ちていない。だが、確かにそこにいるのだ。
彼は少し息を吐き、皮肉げに笑った。
「へえ、管理者権限ね……」
かぶせるように、エコーが口を開く。
「お前、まさか——」
探偵は答えず、力を込めて跳んだ。湖面を飛び越え、闇に沈む座標へと手を伸ばす。
—瞬間、世界が白に染まった。
膨大な情報が、圧縮されたデータが、視覚も聴覚も関係なく頭に流れ込んでくる。光の洪水。無数の断片。
何かが壊れていく音。
何かが、消えた。
"忘れるな"
"思い出せない"
"助けて"
探偵の意識が急激に遠のく。
どこかで、エコーが叫んでいた。
"—強制ログアウトします。"
【現実世界】
目が覚めた。……はずだった。
意識が浮上する感覚はあったのに、身体がない。
(……?)
違う。ある。あるはずだ。ただ、それを動かすことができない。
どこか遠くに沈んだままの腕、足。意識はそれらを認識しているのに、指令を出す手段が分からない。
探偵はゆっくりと息を吸い込もうとした。
できない。……いや、呼吸はしている。しているはずだ。胸が動いている感覚がある。けれど、"確かめる" ことができない。
(……何か、おかしい)
思考をまとめようとするが、それができなかった。
言葉にならない。考えようとするたびに、霧のように意識が拡散する。何を考えようとしていたのか、何を考えていたのか。
……それすら分からない。
目の前に広がるのは、ただの天井だった。何の変哲もない、よく知っている天井。
けれど、違和感があった。
(これは……どこだっけ?)
自分の部屋だ。分かっているはずなのに、その認識がどこか遠い。
身体が動かない。状況的に考えれば、相当に危機的なはずだ。だが——焦りがない。
(ああ、これは……まずいな)
そう考えても、"まずい"という認識が湧いてこない。ただ、それだけの事実として受け止めるだけだった。
時間の感覚もない。どのくらいこうしていたのか分からない。
ただ、ゆっくりと。
ほんの僅かずつ、思考の断片が集まってくる。
(……ログアウト……したんだっけ?)
そうだ。強制終了。意識を持っていかれる前、あのデータに"接触"したのは確かだった。
(じゃあ……この状態は……その影響……?)
考えを巡らせようとするが、それ以上が出てこない。思考がもつれ、上手く繋がらない。
いや、違う。そもそも、考えるための"回路"が今は鈍くなっている。
——やがて、ゆっくりと、手が動いた。
指がぴくりと震える。
(……戻ってきたか)
そう認識するまでに、またしばらくの時間を要した。
次に、腕。肩。脚。徐々に、自分の身体の感覚が戻ってくる。
最初は、まるで他人の身体を動かしているようだった。けれど、それすらも次第に馴染み、ようやく探偵はゆっくりと息を吐く。
……それでも、完全に意識がはっきりするまでには、もう少し時間がかかった。
やがて、思考がまとまり始める。
そして、ようやく気づいた。
「……データの衝撃を、脳が処理しきれていないだけか」
彼は自分の肉体の感覚を確かめるように肩を回した。指先の震えは、もう消えている。動ける。意識も、明晰さを取り戻していた。
なら、次の手を打つだけだ。
探偵は机の端末を手に取った。
【ゲームエンジニア】
探偵はコーヒーを一口飲んだ。
苦味が舌の上に広がる。
現実の味だった。
強制終了からしばらく経った今でも、体の芯が微かに浮いているような感覚が残っていた。視界の端がじわりと揺れる。それも、もうすぐ消えるだろう。
少しだけ深く息を吸う。
——問題は、何がログに残っているか、だ。
目の前のモニターには、ゲーム会社のエンジニアが映っていた。
少し疲れた表情をしている。
「ログを提供してくれて助かる。こちらでも調べるが、そちらの分析結果を聞かせてくれ」
エンジニアは短く息を吐くと、手元のデータをめくるような仕草をした。
「正直、困ってる。異常なログがいくつかあるが、どれも"明確におかしい"わけじゃないんだ」
探偵は軽く眉をひそめた。
「……どういうことだ?」
エンジニアの指が画面のデータを示す。
「接触の痕跡はある。だが、その対象がない」
探偵はコーヒーを置き、画面を見つめた。
接触の痕跡。
だが、それが何に対してなのかは不明。
「つまり、本来あるべきデータが欠落している?」
「いや、それなら削除されたログが残るはずだ。しかし、これは"削除された形跡もない"」
探偵は短く息を吐いた。
本来あるべきものがない。
けれど、それが完全に消えているわけでもない。
まるで"そこにあった"ことだけが、証拠として残されているような——。
エンジニアはデータをスクロールさせながら、ゆっくりと言った。
「何かが"いた"のは確かだ。ただ、それが何だったのかは分からない」
探偵は画面を見つめながら、無意識に指で机を軽く叩いた。
"何か"。
それは、削除データのことか。
それとも——。
エンジニアがさらに続ける。
「もう一つ、気になる点がある」
探偵は視線を上げる。
「……なんだ?」
エンジニアはデータの一部を示しながら、静かに言った。
「ここにあるのは、ただの残骸じゃない。"削除されていない"んだ」
探偵は無言で画面を見つめた。
削除されていない。
それはつまり、"何か"がまだこの空間に"残っている"ということ。
それが、単なるデータの断片なのか。
あるいは——。
探偵は短く息を吐き、コーヒーを一口飲んだ。
「ログインする」
エンジニアがわずかに目を見開く。
「……今の話を聞いて、まだ行くのか?」
探偵はカップを置き、静かに答えた。
「当然だ。"それ"を確かめるために依頼を受けたんだ」
エンジニアは黙ったまま、モニターを見つめていた。
止めることはしなかった。




