12 高レベルエリア
霧の裂谷
ヴァルカを出て東へ進むにつれ、景色は少しずつ変わっていった。
草原は途切れ、道の両側に灰色の岩肌が現れる。冷たい風が切り立った山々の間を抜け、低い唸り声のような音を立てていた。
人の姿も、モンスターの気配もない。
静かというより、何かが息を潜めているような場所だった。
《霧峰山道》
《推奨レベル:30~40》
《補給地点なし》
《警告:死亡時のアイテム損耗率上昇》
「本当に来たな」
エコーが探偵の隣を飛びながら言った。
「来ると言っただろ」
「普通は、装備をそろえたからって、二十以上もレベル差がある場所へそのまま入らない」
「普通の装備よりは整えた」
探偵は腰の《ブラッドファング・ダガー》に触れた。
身体を守る《ライトレザー・コート》と、強化した《ハイスピード・ブーツ+1》。回復薬と状態異常解除薬も用意してある。
以前のような丸腰ではない。
「それでも、一度当たれば危ないのは変わらないぞ」
「当たらなければいい」
「それも前に聞いた」
探偵の口元がわずかに緩む。
エコーはその横顔を見て、目を細めた。
「何で楽しそうなんだよ」
「楽しんでるからだろう」
「そういう意味で聞いたんじゃない」
それ以上は追及せず、エコーは前方へ視線を戻した。
*
山道を進むと、次第に霧が濃くなった。
やがて、数歩先の岩さえ輪郭がぼやける。
《霧の裂谷》
《視界制限が発生しています》
《ミニマップの表示範囲が縮小します》
マップを開くと、現在地の周囲しか表示されなかった。少し先の道は白く覆われ、分岐があるのかさえ分からない。
「ここからは慎重に行け」
エコーが声を抑える。
「この霧には《ヴェイルバイパー》が潜んでる。身体を霧に紛れさせて、死角から襲ってくる蛇型モンスターだ」
「姿は見えないのか?」
「完全に消えるわけじゃない。ただ、目で探してから避けたんじゃ間に合わない」
「何を頼りにする?」
「感知系のスキルか、パーティーの斥候役。今のお前にはどっちもない」
「なるほど」
探偵は足を止めた。
「じゃあ、襲わせるしかないな」
「何でそうなる?」
探偵は道の中央へ出ると、わざと大きく砂利を踏んだ。
乾いた音が霧の奥へ響く。
「おい。敵を呼ぶな」
「潜んでいる場所が分からないなら、向こうから出てきてもらうほうが早い」
「レベル差を忘れてないよな?」
「覚えてる」
探偵は歩き始めた。
警戒していないように見える程度に歩幅を緩め、右手もナイフから離している。
エコーが少し後ろへ下がった。
「本当に気を抜いてるわけじゃないよな」
「どうだろうな」
「そういう冗談は今いらない」
霧の中で、小石が一つ転がった。
探偵は足を止めない。
風は正面から吹いている。だが、右後方の霧だけが、風向きに逆らって細く渦を巻いた。
何かが地面を這っている。
次の瞬間、霧の中から大きな口が飛び出した。
《ヴェイルバイパー LV.32》
探偵は振り返らない。
牙が届く直前、《シャドウステップ》を発動した。
姿が霧に溶け、蛇の頭上を越えて背後へ回る。
炎を帯びたナイフを、鱗の継ぎ目へ滑り込ませた。
《クリティカルヒット》
《火属性ダメージ》
ヴェイルバイパーが身体をくねらせる。
刃は通った。だが、体力ゲージの減りは半分にも届かない。
「一撃では無理だ!」
蛇の尾が霧を裂いた。
探偵は身を低くしたが、先端がコートの脇腹をかすめる。
《ダメージ HP-27》
《状態異常:毒》
視界の端が紫色に染まった。
「解除薬!」
「分かってる」
探偵は後方へ下がりながら、状態異常解除薬を使った。
《毒状態を解除しました》
ヴェイルバイパーが再び霧の中へ姿を消す。
足音はない。
気配も薄い。
探偵はナイフを構えず、周囲を見回した。
「また誘う気か?」
「一度目と同じ場所からは来ないだろう」
「そういう知恵はある相手だ」
「なら、違うものに反応する」
探偵は足元の石を拾い、左の岩壁へ投げた。
石がぶつかり、鋭い音を立てる。
直後、左側の霧が大きく割れた。
ヴェイルバイパーが音のした場所へ飛びかかる。
探偵はその横から踏み込んだ。
《ヴェールストライク》
気配を消し、先ほど傷をつけた鱗の継ぎ目へ、もう一度ナイフを突き立てる。
《ピンポイント・スラッシュ》
《クリティカルヒット》
《火属性ダメージ》
炎が傷口から広がった。
ヴェイルバイパーは地面へ身体を打ちつけ、やがて光の粒となって消える。
《ヴェイルバイパーを撃破しました》
探偵は残りのHPを確認した。
勝てない相手ではない。
だが、一体倒すたびに薬を使っていては、奥へ進む前に物資が尽きる。
「これを何度もやるつもりか?」
エコーが尋ねた。
「避けられるなら避ける」
「倒せると分かっても?」
「目的は狩りじゃないからな」
エコーは探偵の顔を見た。
「じゃあ、何が目的なんだ?」
探偵は足元に落ちた蛇の鱗を拾い、インベントリへ収めた。
「次の街へ行くんだろ」
「……そうだったな」
エコーは少し間を置いてから、前方を指した。
「この先に《奈落の洞》がある。そこを抜ければ、山の向こう側へ出られる」
*
それから探偵は、戦闘を避けるように進んだ。
霧が不自然に揺れた場所には近づかない。岩陰に脱皮した皮が落ちていれば、その周囲を大きく迂回する。
道が狭い場所では、先に石を投げて反応を見る。
敵が現れれば、倒そうとはせず、《シャドウステップ》で死角を抜けて距離を取った。
速さを攻撃のためではなく、逃げるために使う。
それでも、後方から追ってくる気配が消えるまで、気を抜くことはできなかった。
「ピーキーすぎるんだよ、お前の戦い方」
エコーがぼやく。
「何の話だ?」
「避けられるうちは強い。でも一度判断を間違えたら終わり。普通はもう少し余裕を持たせる」
「余裕ならある」
「回復薬の残りは?」
「四本」
「今、一体で一本使っただろ」
「まだ四回は間違えられる」
「そういう数え方をするな」
探偵は薄く笑った。
*
霧が少し薄くなった頃、前方に巨大な岩壁が現れた。
中央には大きな亀裂が走り、その奥に暗い空間が口を開けている。
洞窟の入口だった。
中から冷たい風が流れ、水滴の落ちる音がかすかに響いている。
「ここが《奈落の洞》だ」
エコーが入口を見上げた。
「洞窟の向こうは次のエリアにつながってる。ただ、中は分岐が多い。瘴気がたまってる場所もあるし、霧の裂谷より敵のレベルも高い」
「地図は?」
「入口付近しか表示されない。先へ進めば少しずつ更新される」
「途中で戻れなくなる場所は?」
「正規の道を外れなければない」
探偵がエコーを見る。
「正規の道なら、か」
「今度は川底みたいな場所を探すなよ」
「探すとは言ってない」
「言ってなくてもやるだろ、お前は」
探偵は洞窟の奥へ目を向けた。
黒い闇の中に、道らしいものは見えない。
「幽霊でも出そうだな」
エコーが黙った。
ほんの一拍だけだった。
「……趣味の悪いこと言うなよ」
「雰囲気の話だ」
「この洞窟にアンデッド系の出現設定はない。出るのは獣と虫と、瘴気から生まれた魔物だ」
「なら、安心だな」
「何が安心なんだよ」
探偵は洞窟へ一歩踏み込んだ。
「何もいないと確認できる」
「お前の『確認』は、普通より範囲が広すぎるんだよ」
エコーは入口の前でわずかに迷い、それから探偵の後を追った。
二人の姿が、暗い洞窟の中へ消えていった。




