第一話「誰」
安河涼介は、朝目を覚ますと、見知らぬ天井を見上げていた。
——いや、違う。
この天井は見慣れたもののはずだ。毎日暮らしている自分の部屋なのだから。
だが、何かがおかしい。
身体が、重い。
視界が妙にぼやけている。
それに——何かを忘れている気がする。
「……どこ、ここ」
掠れた低い声が、喉からこぼれ落ちた瞬間、涼介は凍りついた。
この声は、自分のものではない。
反射的に跳ね起きる。だが、その動作すら妙にぎこちない。
まるで、自分の体の操作方法を忘れてしまったような——
心臓が早鐘を打つ。無意識に、壁にかかった鏡の方へ視線を向けた。
そこに映っていたのは——
知らない男の顔だった。
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「安河涼介くん?」
その名前を呼ばれて、涼介はゆっくりと目を開けた。
蛍光灯の光。
白い天井。
病院の診察室だった。
——そうか、また、ここに来たんだ。
「意識が戻ったようだね」
担当医の江藤が、カルテを見ながら言った。
「……俺、また?」
「ああ。朝、君は別の人格に代わっていた。お母様がなかなか降りてこないことを心配して部屋に入ったら様子がおかしい事に気がついて、すぐに病院に連れてきたらしい」
涼介は眉をひそめた。
「今朝の記憶は?」
「ない」
そう答えた瞬間、胸の奥がざわついた。
まただ。
いつものことだ。
それなのに、いつまで経っても慣れることができない。
「代わっていたのは、どんなやつでした?」
「ひどく脅えているようで、周囲を警戒していたな。性別と歳は言ってくれたよ。少し声が低かったな。病院だって分かると少し落ち着いたようだよ。」
「……初めてのやつ、ですね」
「そうだね。これで、君の中の人格はわかる限りで7人目だ」
江藤はそう言って、ノートに書かれた名前のリストを指でなぞる。
そこには、すでに6つの名前が並んでいた。
涼介は、自分の中の「彼ら」を知っている。
彼らは自分の中に現れ、時に身体を奪い、時に支えてくれる存在。
だが、涼介にはどうしても納得できないことがあった。
彼らはまるで「元々自分とは別の誰か」であるかのように話すのだ。
「自分が涼介から生まれた」とは言わず、むしろ「以前の自分を覚えていない」と戸惑う。
「先生」
涼介は、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
「人格って、本当に“自分の一部”なんですか?」
江藤はペンを止め、少し考えるような仕草をした後、答えた。
「そうだね……基本的には、そう考えられている」
「じゃあ、どうして“彼ら”は、自分のことを他人みたいに言うんですか」
「君の潜在意識が、そういう形で人格を作ったんじゃないかな?」
「だけど、生まれる人格たちは僕のことをほとんど何も知らないんです」
江藤はじっと涼介を見つめた。
「まるで、別の人間だったみたいに」
***
診察が終わり、病院の待合室で会計を待っている間、涼介はぼんやりとスマホを眺めていた。
何気なくニュースアプリを開く。
そこには、今朝の出来事とは関係のない日常のニュースが並んでいた。
その中に、ふと気になる見出しがあった。
「大学生の男性、自宅マンションから飛び降りか」
思わず、涼介は記事を開いた。
『本日未明、〇〇区のマンションから男性が転落し、死亡しました。警察は自殺の可能性が高いとみて調査を進めています。亡くなったのは、〇〇大学に通う21歳の男性で——』
ふと、手が震え、胸の奥に冷たい確信が走った。
体は「安河涼介」であって、安河涼介ではない。
今朝は別の人格がこの体を動かしていた。
今朝、生まれた新しい人格
江藤が言っていた性別、年齢
そして、記事に載っていた亡くなった男性の写真。
何故かどこかで——見たことがある気がした。
涼介はゆっくりとスマホを伏せ、目を閉じる。
「俺は誰だ.......」
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