スナメリ魔王様、ランチだ!
長い長い午前中の授業攻勢が終わり、昼食の時間となる。啓太と直美は慣れた様子で、机を動かしていく。
さらに友人二人が加わって、二つの机が大きめの長方形となった。
『いただきまーす』
健全な掛け声とともに、二人がそれぞれ鞄から取り出した弁当箱の蓋を開けた。
啓太の弁当箱は、二段になっていて、それぞれにご飯とおかずがわけて収められていた。定番の梅干しを添えたご飯と、唐揚げなどのおかずに加えて、ブロッコリーやトマトで彩りも考えられており、食欲をそそる。
それに対して、直美の弁当箱は、ステンレス製。啓太のよりもやや大きい。ドカベンと表現することもあるそれは、磨き抜かれた銀色に光り、手入れの良さを伺わせた。
何故そんな事がわかるかといえば、理由は単純であった。
要するに、直美の弁当箱の中身は――空だった。
綺麗にぴかぴかに。まるで、初めから中は空だったかのように。
『……』
不可思議な出来事に、四人全員が沈黙していると――
「げぷ」
小さな音が、聞こえた。それは、ちょっと一気に食べ過ぎた時にでる、あの音に似ていた。
現出する、地獄絵図。啓太の脳裏に浮かんだものは、そういった類のものだった。
「おんどりゃあああ!」
怒りの声を上げて、直美が鞄の中で満足そうに横になっていたスナメリのぬいぐるみを引きずり出し、見事なネックハンギングツリーを決める。
「食べ物の恨みが怖いってことを! 魂に刻んであげるわ!」
「ちょっとちょっと! 直美!」
叫んで、そのまま締め落とそうとする直美を啓太が慌てて止めに入った。
「おかしいよ! その光景は!」
啓太に言われ、ハッ、と直美は我に返った。
そして気づく。直美が昼休みの教室で弁当箱が空なことに激昂して、愛くるしいぬいぐるみに八つ当たりをする女子中学生以外の何者でもないことに。
教室はどよめきに包まれ、視線が直美に集中する。
啓太がちらりと見ると、弁当を囲んでいた二人も驚愕に目を見開いている。
「お、落ち着いて……直美ちゃん」
おずおずと声をかけた女子生徒は、酒井優花。直美とは中学一年からのクラスメイトであるが、対照的に引っ込み思案で大人しい性格をしている。
腰までの長髪は天然の栗色で、天使の輪ができており、背は少し低めだが、いわゆるトランジスタグラマーの体型をしている。
総合するとルックスは直美と並んで学年ではかなり上位に食い込むともっぱらの評判であり、『二人をブレンダーで撹拌して砂糖を加えたら、理想の性格となる』という意見が大勢を占めている。
好対照をなす二人ではあるが、お互いにウマが合うらしく、親友と呼べるほど、仲がよい。直美も、酒井には素直に謝る。
「あ、ごめん優花。あたしは落ち着いているわよ。そりゃもう、この上なく。さながら薩長同盟が実現した瞬間の、坂本龍馬のようにね」
「その例えが適切かどうかは、歴史学者をお招きして検証したいところだけれど……」
ふはははは、と怪しげに笑う直美に、酒井はおずおずと、しかしはっきりと突っ込んだ。
その二人を眺めていた啓太に、横から声がかかった。
「一体何があったんだ? 俺には氷川が、弁当を取った犯人はあのぬいぐるみであると主張しているかのように聞こえるんだけど」
声の主は石川拓海だった。啓太とはこれも同じく去年からの腐れ縁である。特別成績優秀でも、運動が得意なわけでもないが、かなりの本好きらしく、よくわからない雑学知識で頭の中は埋まっている。こちらは啓太とよく似た温和な性格が、二人の仲をつないでいる。
その石川に向かい、啓太は諦念を込めた視線を送った。びくぅっ! と石川が一歩下がる。
「まあ、色々あったんだよ、石川。僕はジャック・バウアーの気持ちがとてもよくわかる」
「そ……そそそそそそうか。そうか。それは、大変だな、うん」
常のキャラクターと違い、怪しげなことを口走る啓太に、石川はさらに三歩、下がった。
だが、啓太は虚ろな眼をしてぶつぶつと問いかける。
「昨日は特別な一日だった。今日も特別な一日になりそうだ。シーズンいくつまであるんだろうね? レガシーみたく打ち切ってくれていいんだけど」
「あ、俺、急用を思い出した」
危険すぎる啓太の呟きに、くるり、と回れ右をして脱兎のごとく駆け出す石川を、呪殺できそうな視線で見送ってから、啓太はとりあえず青紫色に変色したぬいぐるみを回収した。
「はっ!」
そのまま、空手の要領で気を入れる。びくんっ! とぬいぐるみが跳ね、頬に赤みが差していく。
クラス中が見守る中、スナメリ、いや、魔王はゆっくりと、気だるげに瞼を開き――
「めんどりゃああああ!」
明らかに遅れたボケを叫び、クラス中を凍りつかせた。
一瞬とも永遠とも思える時間が過ぎ――
教室が地鳴りのような驚愕の叫びに揺れた。
「終わった……」
啓太が呟くと、ポン、と肩に優しく手が置かれた。その手の主は、酒井優花。
少女は慈愛を宿した瞳で、啓太を見つめ、名の通り、あくまでも優しく諭す。
「諦めたら、そこで試合終了ですよ」
「明らかに終了しているよ!」
しかし、希代の名台詞も、啓太の神経を逆撫でしただけだった。
ざわ……ざわ……と教室がざわめきに包まれる中、スナメリ魔王は机の上で仁王立ちになると、ぐるり、と教室中に視線を走らせた。その仕草に、生徒たちが叫びを上げる。
「スナメリが動いた!」
「いやスナメリは動く! むしろぬいぐるみが動いた!」
「どっちでもいいわよ! そんな表現力の差!」
「お前、今さりげに酷いこと言ったな!」
混乱する生徒たちの様子に満足したように頷くと、魔王が啓太に視線を飛ばす。
啓太は、胡乱な目つきで返した。
「……なんですか」
もはや隠しても無意味と悟り、啓太は自分から口を開く。魔王は満足したように、一つ頷いた
。
「少年も大変だな」
「誰のせいですか、誰の」
同情の言葉を切って捨てる啓太を無視し、魔王はあくまでもマイペースに続ける。
「心の底から叫ぶがいい! 不幸だ! と!」
ばばーん! と効果音すらつきそうな勢いで、魔王が高らかに宣言する。
ぴきっ。とこちらは明らかに音を立てて、啓太のこめかみに青筋が浮かぶが、魔王は気づかない。
「なるほど、不幸か」
「確かに、不幸だな……」
「可哀想……柏木君」
柏木啓太が不幸である、ということが満場一致で可決され、新たな称号『柏木・アンラック・啓太』が与えられようとしていた時、もちろん黙っていない存在がいた。
「啓太のどこが不幸だっていうのよ!」
魔王にビシリ、と指を突きつけたのはもちろん、氷川直美だった。中学二年生にしてはスラリと伸びた長い手足は、動きの中でこそ、魅力的に輝く。
「こんなに毎日刺激に溢れた毎日を送っているというのに!」
その姿はまるで戦場を駆ける、戦乙女のように雄々しく、美しい。
もっとも戦乙女は、死んだ勇者を死者の宮殿へと連れていく役目を持っているわけであるが。
だが、魔王は戦乙女の言葉では揺るがない。
「それが、間違いだ。そもそも人間は、平穏を望む生き物だ」
冷静に、冷徹に、反論する。そのつぶらな瞳が宿すものは、紛れもない、理性の光。
その言葉が、事実が、再び教室に染みわたる。
今度は勢いではなく、むしろ冷然と。
それはすなわち、不思議な事象を正しく認識させることに、他ならない。
認識できる。しかし、理解はできない。それらが生むのは、恐怖。
そして今、恐怖が、伝播する。
「す、スナメリが、いや、ぬいぐるみが喋っている……!」
「さっき、どうしてネタでスルーできたんだ? 俺たち!」
「それはお前が! 阿呆だからよ!」
「だからお前、どさくさに無茶苦茶言うなー!」
数人が変わらぬコントを繰り広げる以外は、全員が啓太達から離れ、壁や窓際に移動し始めた。
だが、気弱なはずの酒井は動かない。啓太が心配して思わず声をかける。
「酒井さん? いいんだよ、無理して、僕たちと一緒にいてくれなくても……」
その気づかいに満ちた言葉に反応して、直美がちらりと視線を放ってきたことにも啓太は気づかなかった。
酒井が、まったく意外なことに、首を横に振ったからだ。
「ありがとう、柏木君。でも、可愛いから大丈夫」
「いや、それでいいの? というか、何その理屈?」
啓太は呆れたが、しかし、その言葉は救いの福音のように、教室に響いた。
――可愛いから、大丈夫。
誰かが、叫んだ。
「そうだ! 大丈夫だ!」
誰かが、拳を突き上げた。
「俺たちは、こんなところで終われない! 大丈夫に決まっている!」
誰かが、小さく呟いた。
「貴方は死なないわ。わたしが守るもの……」
誰かが、溜息と共に嘯いた。
「そんなの当たり前でしょ? アンタバカぁ?」
まるで波が引いて行くように、恐怖が払われる。澱んだ教室の空気が、清浄なものへと昇華する。
魔王はその変化を敏感に感じ取り、眼をぱちぱち、と瞬かせた。
「……んむ?」
こきゅ、と首を傾げる仕草も、もはや誰にも愛らしい印象しか与えない。
「か、可愛いー!」
まず酒井が感極まったようにそう叫び、ぎゅむっ、とその豊かな胸元に魔王を抱きしめる。
「あ、優花ずるいー!」
「あたしもー!」
教室に黄色い声が満ち――
魔王の威厳は、教室でも保たれることなく、マスコットとして――おもに女子に――クラスに迎え入れられることになったのだった。
啓太:うちのクラスの順応力の高さにドン引き。
魔王:ある種の魔窟だな。
酒井:可愛いからいいの。可愛いは正義。スナメリしか勝たん。
直美:こんな子だっけなー?