スナメリ魔王様、登校!
翌朝、いつもの時間に目覚めると、啓太は綺麗な姿勢のまま眠りこける魔王を横目にしながら、手早く学校の準備を整えた。
見た目を裏切らない、優等生らしいてきぱきとした動作で、気だるい朝を感じさせずに、一階へと下りる。両親は既に働きに出ていていないが、啓太は特に気にもせずにテーブルにある朝食を温めなおした。
「行ってきます」
聞く者のいない挨拶を残し、啓太はドアに鍵をかけた。
日差しは変わらずきついが、空気は少しずつ、秋を感じさせる。暑過ぎもせず、寒すぎもしない、極上の一日。
啓太は足取り軽く、直美の家へと向かう。
すぐ近くの、というか隣の家のチャイムを鳴らし、いつも通り、眠たげに出てくるはずの直美を待つ。
ガチャリ、とドアが開いた。
「おは……」
「魔王は?」
啓太の挨拶を途中で遮り、眠たげでもなくしっかりとした言葉で、直美が問いかけた。
レアな状態に驚きながらも、啓太は聞かれたことに答える。
「まだ寝ているよ」
「起こして、連れてきて」
「え? 連れて来て、どうするのさ?」
「もちろん! 学校に連れていくのよ!」
尋ね返した自分を呪い、啓太は石になった。
「起こして、連れてきなさい!」
沈黙している啓太に、直美は追い討ちをかけた。むしろ寝ていて欲しかった、と思いつつ、啓太は来た道を引き返し始めた。
もちろん、直美は後ろからついてくる。
昨晩の願いは、どうやらどこかにいるはずの神様には、郵便事故か超自然現象で届かなかったらしい。
げしっ!
啓太の部屋に入って、まず直美がした行動は、蹴りだった。それも見事な、サッカーボールキックだった。
「ぶふぉっ!」
白い物体が直線に近い角度で、窓というゴールに叩きつけられた。
ずるずる、と床にゆっくりと落ちて、魔王が立ち上がる。
「何だ! 敵襲か! 私が誰か、わかっているのだろうな?」
「魔法の使えない、スナメリ魔王でしょ」
当然のごとく怒りの声を上げる魔王に、直美はむしろ冷静な声音で答えた。
「略してスナマ」
ニヤリと笑う直美に、一瞬魔王は呪殺をするためにあるかのような視線を向けたが、すぐにニヤリと笑い返した。
「なんだ、貴様か。起きぬけの蹴りといい、その狂ったセンスといい、今日も壮健そうで何よりだな」
直美に合わせるように冷静な口調。しかしその内容は明らかに直美を見下していた。
直美が一度驚いたように瞬きしてから眼を閉じ、すぐに開いた。それだけで、少女から戦士の顔へと変わっていた。
「あんた……まだ自分の立場ってもんがわかってないようね!」
怒鳴ると同時に、直美が魔王を捕まえようと飛びかかる。
だが、魔王はその小さな身体を活かして、逆に直美の懐に飛び込んだ。
「昨日までの私と思わぬことだ」
「え?」
その動作の早さに、直美の顔から血の気が引く。
啓太が止める間もなく――
「はあっ!」
魔王の気合の声が響いた。天を貫くかのような、飛びあがりざまの上段前蹴り――ようするに打点の高いヤクザキック――が直美の顎へ向かって伸びていく。
「直美!」
叫ぶ啓太にできることは何もなかった。ただ、直美の顎が跳ねあがるのを待つのみ――
ぽすん。
だが、聞こえたのは軽い音だった。
そうまるで、ぬいぐるみが人の顔に当たったかのような、軽い音。
「……体重がたりませんね」
「……ぬかったか」
同情するように言う啓太に、魔王は自らのミスを苦々しく認める。
男二人が、互いに視線を交わしあう。それは、戦場で生まれた友情のごとく。
「納得したところで、覚悟はいい?」
その友情を断ち切る、怒りの声が魔王の頭上から降り注いだ。
それはまるで、戦場に架かった橋を、爆破するかのごとく。
「もう一度! 立場ってもんを教えてあげるわ!」
「うぶわっ! えぐおっ! あべしっ! ひでぶっ!」
びしっ! ばしっ! と朝の清々しさを台無しにする陰惨な音が部屋に響いていくにつれ、啓太は頭痛を感じた。
朝一からボロ雑巾のようになった魔王にチョコレートクッキーを補充する啓太を見て、直美はふん、と鼻を鳴らした。
「カントリーマ○ムがエネルギー源なのね」
「直接描写はやめてよ!」
今までの努力を台無しにする直美の発言に、啓太は悲鳴を上げた。
一方、もっきゅもっきゅと朝食を取った魔王は、落ちついた口調で問いかける。
「それで、朝から私に何の用だ?」
「学校行くから一緒に来なさい」
それに対する直美の返答は簡潔だった。
「わかった」
魔王も簡潔に返した。
「えええっ! あっさりすぎる!」
「一応召喚者はこの少女だ。自己崩壊の危機はとりあえず去ったと言える。であれば、今は従うべき時であろう」
啓太の悲鳴とも非難ともつかない叫びに、説明するように魔王が答えた。直美が満足そうに頷く。
「下僕はこうでなくちゃね」
「一瞬たりとも下僕になったつもりはないが」
すかさず魔王が反論し、直美が何か言うよりも早く、だが、と続ける。
「こんな身ではあるが、お前の目的は有効だ。けいや……」
「さあ! 遅刻するわよ! ダーッシュ!」
魔王の言葉を遮って、直美はいきなりスナメリ(魔王)をひっつかみ、階段を駆け下りていく。
啓太は、呆気にとられたまま、それを見送って――
壁にかけられた時計を見て、自分も慌てて後を追った。
ああ、啓太。お前はなんという愚か者か。
諍いを止めもせず、悪戯に時間を浪費し、今、人生最大の危機にあるとは!
などと胡散臭いフレーズを思い浮かべ、それが教科書に載るほどの名作のパロディであるようで実は似ていない事実に驚愕しながら、それでも啓太は走り続けた。
短いスカートの下にスパッツを常備している直美は、素晴らしい速度で通学路を駆け抜け、校門という名のゴールへと駆けこんだ。
ほぼ同時に、啓太も到着する。
「間に合ったー!」
「今日は際どかったね」
「目が、目が回るるるるるる」
息を弾ませ、笑みを交わす二人に、魔王の泣き言が聞こえてきた。直美の右手を見ると、わしづかみにされたぬいぐるみの瞳が渦を巻いている。
なんというか、魔力が枯渇しがちな割に芸の細かい魔王であった。
「よう、柏木」
啓太がかいがいしく魔王を介抱していると、横から声がかかった。
見ると、二人の知った顔の――ただし、名前は知らない――上級生が立っていた。
「今日も仲良くご登校か? 昨日の夜眠れなかったせいで、遅刻寸前か?」
ぎゃはは、と自分で口にした冗談に自分で笑う。
魔王がそれを見て、渦巻の眼を元に戻した。
ここは自分の出番、とばかりに態勢を半身に変え、僅かに右手に輝きを宿す。
だが、啓太の反応は落ちついたものだった。
「うっかり寝坊しました。ご心配をおかけしました、先輩」
相手の目を見て、はっきりと言う。気弱な様子は、微塵もない。
「お、おお……」
気圧されるように上級生は曖昧に頷いて、そのまま去っていった。
「ふう」
「珍しいわね、啓太があんな言い方するの」
溜息をついた啓太に、直美が驚いたように声をかける。啓太は照れたように頭をかいた。
「今日はさすがに、全力で走ったから余裕が……」
「あー、なるほど。啓太でもそういうときがあるのね」
怪奇現象にでも出会ったかのように眼を見開く直美の様子に、啓太は苦笑を返す。
「そりゃあるよ」
二人で笑いながら校舎へと向かい歩こうとして――
ぽつん、と所在なげに佇むスナメリが、ひょい、と掴まれた。
「む、むう?」
「むう、じゃないわよ。行くわよ」
つかつかと歩き始める直美に、魔王は納得いかない様子で質問する。
「ああいう場合、少年がやられそうになって、私が助けるのが普通ではないのか?」
「ああ。ないない」
しかし直美は空いている左手でパタパタとその疑問を否定した。
「啓太、空手の有段者だから」
「こ、この少女漫画風万能型主人公属性がああああ! むきゅっ!」
魔王が叫んだため、啓太は慌ててスナメリの口を押さえた。
予鈴が鳴り終わる、ぎりぎりのタイミングで直美は啓太とともに教室に滑り込んだ。
二人とも同じクラスだが、席は離れている。そのため、挨拶を交わす余裕もなく、自分の席に座ると、まさにちょうど、担任が教室へと入って来た。
「いい? とにかく学校では喋らないでね!」
「……意外に常識的な願いだが、ならば何故私を連れてきたのか、という疑問が残るな」
小声でもテンションの変わらない直美の言葉を、魔王は独り言に見せかけた質問で返した。
だが、直美の瞳をわずかに覗きこむと、前言を撤回する。
「ふむ。まあいい」
軽く頷いてから、沈黙する。鞄の中に下半身を入れると、くたり、とぬいぐるみは脱力した。
それを確認すると、直美はノートを広げ、朝のホームルームをそっちのけで、ペンを持つ。
人類、と書いてから、すぐに消し、続けて一気に書ききる。
『啓太補完計画』
それをまた、消しゴムでごしごしと消し去ってから、直美は小さく溜息をついた。
「我ながら……ダメすぎるわ」
そう呟いた直美の横に置かれた鞄の中で、魔王を宿したスナメリは、ピクリとも動かなかった。
ホームルームが終わると、すぐに一時間目の授業が始まる。睡眠音波を垂れ流す国語教師の授業を受けながら、啓太は自分の考えに没頭していた。
いや、正確には、災厄を予想し、それに対する対策を立てようとしていた。
つまり、魔王をわざわざ連れてきた直美がどんな騒動を引き起こすかということを、予測していた。
昨日や今朝のような騒動が教室で起きた場合、確実に収拾はつかなくなる。それだけは避けなくてはならない。そのためには、この身の安全を顧みることはできない。
中学生らしからぬ悲壮な決意を胸に授業を迎えた啓太だが、ふと一つの事実に思い至る。
そういえば、直美は魔王に学校では喋るな、と言っていた。その言葉を二人が忠実に守れば、何も起きるはずはないのである。
(それでも……)
なんというか、嫌な予感がする。
それは、肝試しに幽霊病院へ行った挙句に、本当に恐怖体験を味わう直前のような、酷くねっとりとした感覚だった。
そしてその予感は、残念ながら――むしろ当然として――的中する。
楽しいはずの昼食は、惨劇へと変わるのであった。
直美:なんか手を光らせていたけど、実際何するつもりだったの?
魔王:いや特に。ふいんき(なぜか変換できない)出しただけ。
啓太:ホント、刹那に生きてますね。