08話
「すごーい! こんなに綺麗な水が流れてるなんて! あ、魚!」
森の中に流れる小川に入り、スピカは一人ではしゃいでいた。
王都を抜けてから平原をしばらく馬で走ったスピカと青年は、追手に見つからないように森の中で一旦休憩をすることにした。慌てて逃げてきたため食料も何も持ってきておらず、ひとまず水分補給が可能な河の近くにやってきたのだ。
――追われてるって自覚があんのかねぇ……
目の前で無邪気にはしゃぐ少女の姿を見ながら大きなため息を吐いた青年は、呆れながらもその姿に何故か心が洗われるような気がした。
「きゃー! ほら見て! 取れたわ!」
「へぇ、うまいもんですね。昔やったことが?」
スピカがドレスの袖をまくって魚を捕まえる姿を見て青年は感心した。お城に住んでいる人間が自分で魚を取る経験をすることなどあるのだろうか。
そんなことを考えていると、魚を掲げた彼女の左腕に、金色のブレスレットが輝いているのが見えた。
――流石、ずいぶんと高そうなもん身につけてるな
「いいえ、はじめてよ! でも、もっと簡単に捕まえられるんだと思ってたわ」
「十分簡単にやってのけてると思いますが……」
「ねぇ! あなた……そっか、名前は?」
「あぁ……申し遅れました――アスベルと言います。失礼ながら、あなたは……」
門番である顔見知りに聞いていた情報から何となく正体を分かってはいたが、本人の口から聞いてみないと真実は定かではない。
アスベルに名前を聞かれ、スピカは表情が少し曇った。
「そうよね……助けてもらったのに名乗るのが遅れてごめんなさい――私、スピカっていうの」
「スピカ……様……。やはりそうでしたか」
「えぇ、そうなの」
姿を見たことはなかったが、王都に出てきたばかりの田舎者のアスベルも名前だけは知っていた――現国王の一人娘、つまり、この国の王女様だ。
――ってことは俺、王女様がいたベランダに落ちたってことかよ……!
自らの大失態に頭を抱えたアスベルだったが、すぐにベランダでの出来事を思い出す。
「その、スピカ様……」
「敬語なんて使わなくていいわ。私たち、たぶん歳も近いんだし」
「いや、そういうわけには……」
河から上がって倒木に座るアスベルの隣に腰かけた彼女は、敬語を使うことに難色を示した彼を睨みつける――本人は怒っているつもりなのだろうが、その表情の愛くるしさに思わずアスベルは目を逸らしてしまう。
「その、じゃあ、敬語はなしで――。スピカは、あそこで何があったの? 城の兵士に襲われてたみたいだから、咄嗟に逃げ出しちゃったけど……」
「そうよね、本当にごめんなさい……こんなことに巻き込んでしまって。呑気に河で遊ぶ前に、説明する必要があったわよね」
「あぁ、いや、別に責めてるわけじゃ……」
先ほどまでの笑顔が嘘のように、スピカは深刻そうな表情で俯いている――河で無邪気に魚を取っていた少女は、途端に悲劇のヒロインへと立ち戻ってしまった。
「私は、ずっとお城の中に匿われて生きてきたの。悪い人たちから命を狙われないようにって、お父様たちが……」
――へぇ……ユーリが言ってたことも、あながち間違いじゃなかったわけか
アスベル自身も王都へ出てきてそれほど長い時間が経っているわけではないが、確かに国王と王妃の姿を見たことはあっても、公の場で王女の姿を見たことはなかった。それをアスベル自身は別に不思議に思ったことはなかったが、王都で同じ部屋に住んでいる青年たちがそのことを口にしていたことを思い出す。
「王女様ってめちゃくちゃ美人らしいけど、なんで表舞台に出てこないんだろうな」
「お前みたいな輩に襲われるのを怖がってんだろ?」
「仮にそうだったとして、護衛の兵士をたくさんつけりゃ済みそうな話なのに」
「もしくは、王女様自身が下民なんかに顔を合わせたくないって思ってるとかな」
「うーん……親に昔聞いた話だと、そんな人とはとても思えないんだけどなぁ」
途中で眠ってしまったアスベルはそれ以降の話を覚えていなかったが、門番であるユーリと話すようになったのも、彼が王女の話をしてそれにアスベルが他愛もない疑問をぶつけたことがきっかけだった。
「王女って下民が嫌いだから表舞台に出てこないって知り合いが話してたのを聞いたことがあるけど……」
「おい、アスベルとかいう青年――お前は王女様の人間性を全く分かっていない! あの方がどれだけ他人を分け隔てなく扱っていることか! 私たちのような下っ端の兵士に対しても、必ずすれ違う時には頭を垂れてくださるようなお人なのだぞ! そんな方が下民を嫌っていることなどあるはずもない!」
「へぇ……。でも、なんで城から出てこないのさ」
「国王陛下と王妃様が、城内で彼女のことを厳重に守っているからさ。王女という立場を利用して良からぬことを考える、不逞の輩が後を絶たないって話だからな」
そういえばユーリがやたらと城内の事情に詳しいと思ったのもこれが最初だった、とアスベルは思い返す。
「私……お母様をお城に置いてきてしまったわ……」
「え……?」
「お母様は毎日のように私のことを心配してくれていたわ。私が毎晩手を取ると、とても優しく微笑んでくださるの。退屈な毎日も、お母様の笑顔があるから耐えられていたのかもしれない。 あの笑顔を壊さないために私は……私は……!」
スピカの語ってくれたことは少ないものの、母親という存在が彼女の中でとても大きいものであることが感じ取れた。母を傷つけてしまったかもしれないということに対して、おそらく経験したことのない罪悪感に襲われているのだろう――膝を抱えて表情はよく見えなかったが、うっすらとスピカの目に涙が浮かんでいるようにも見えた。
「お城に……戻りたい……?」
「……!」
スピカ自身の指示であったとはいえ、彼女をここまで連れてきてしまったことにアスベルは少なからず責任を感じていた。囚われの姫君を襲った不逞の輩――彼らから彼女を守ったことはまず間違いないだろうが、このまま二人でいつまでも逃げ続けているわけにもいかない。
――できる限り穏便に済ませたいけど、たぶんそうもいかないんだろうなぁ……
アスベルやスピカにそのつもりはなくとも、王女を後ろに乗せたまま門を突っ切り、王都や草原を走り去ったアスベルは、それこそ不逞の輩だ。
彼女を無傷で城に返して、王女本人の口から説明してもらえれば何とかなるかもしれないが、果たして無事に済むかどうか。
「……りたくない……」
「え……?」
あまりにか細い声でスピカが呟くので、アスベルは思わず聞き返す。
「私……帰りたくない……」
「えっと、えぇ……?」
予想外の彼女の言葉に、アスベルは思わず声が大きくなってしまうのだった。