07話
ベランダから飛び降りるという危険を冒した後、温かい日差しの中、城の中庭の芝生に寝転び空を眺めるだけで、何故か別の世界に来たかのような感動があった。
恐怖に勝る興奮で笑いだしてしまったスピカに対して、青年が呆れていると、二人の見上げていた方向の城壁からなんと先ほどの兵士が顔を出した。
「いたぞ!」
兵士は顔を引っ込めると、こちらへ向かってくるであろう彼らの駆け足が辺りに響き渡る。二人は慌てて立ち上がると、青年がスピカの手を引いて飛び降りてきた方向からさらに離れるように走り出す。
「急ぎましょう。早くしないと簡単に城から出られなくなります」
「ねぇ! 次はどうするの?」
興奮冷めやらぬまま青年に質問すると、彼は呆れたような顔をしながら前方を指さす――そこには普段乗馬の稽古で最初に訪れる馬小屋があった。
「とりあえず、あれで城を脱出しましょう。走って逃げたんじゃ、どのみちあれで追いつかれますし、先手必勝です」
「そうね、確かにそれがいいわ! でも……私そんなに乗馬は……」
「いいですよ、俺の後ろに乗ってください」
小屋の管理人に対してはスピカが適当に説明をしてごまかすことにした。
「どうなされたのです!? スピカ様……そんなに御髪を乱されておりますのは……」
「気にしないで。それより、急いでるの」
スピカに指示をされ、普段スピカが稽古で乗っている白い馬に二人は跨った――普段は乗るのにも一苦労のスピカではあったが、青年が先に跨って手を差し伸べてくれると、簡単に乗ることができた。
「それじゃ、またしっかり捕まっててください……!」
――はぁ!、という青年の声と同時に、スピカが経験したことのない速さで馬が走り出す。
「ちょっと!」
慌てて青年の背中にしがみついたスピカは、風のように流れていく周りの景色に目を奪われる。普段自分が乗っている時からは想像もできないような白馬の姿に、スピカは少しだけ悔しい気持ちに襲われる。しかし、それも束の間で、その疾走感が先ほど外壁を降りてきた時と同様の興奮と高揚をスピカに与える。
「すごいわ! こんなに速い馬に乗るのは初めて!」
「ちょっと……暴れないでください! はしゃいでる場合じゃ……」
「もっともっと! はやくはやく!」
「あんまりふざけないでください! 喋ってると舌を噛みばっ……」
「あっ……」
すっかり興奮し緊張感がなくなっているスピカに対して、あくまで良識的に対応しようとした青年が何故か罰を受ける。舌を噛んだ青年がしばらく無言になると、やがて城の門が見えてくる。
「あれは……」
青年が呟いたのでスピカも彼の背中越しに門を見ると、門番が大きく手を振って馬に止まるよう大声で指示を出している。
「止まれー! 命令だ!」
「ダメ……! 今止まったら……」
「分かってます……!」
青年がそう言うとこれまでよりもさらに姿勢を低くし、門に向かって馬が加速していく。止まる様子のない馬に恐れおののき、門番はその突進を避けざるを得ず、二人は難なく城門を抜けると跳ね橋を通過する。
そのまま王都の大通りに入ると、青年と同じような格好をした大勢の人たちで町は賑わっており、スピカはその景色に圧倒される。今目の前に飛び込んでくるものすべてが初体験で、残さず目に焼き付けたいと、全速力で走る馬の上からスピカは四方八方を見渡していた。
そのまま速度を落とさず走り抜けると、やがて王都の出口に辿り着き、そこにも先ほどと同様に門番が立っている。さらに、町の入口にある門は固く閉ざされており、先ほどのように強引に通り抜けることはできなさそうだ。
「そんな……どうしよう」
「捕まっててください!」
こちらの門番も、大きく手を振って止まるように指示を出す。青年の腰に回した腕にさらに力を込めたスピカは、彼の背中に頭を預ける。リネンのシャツを通して、彼の温もりが伝わってきた。
速度を落とさない馬を門番が避け、門の前まで走ってきた馬は、門を飛び越えるほどの大きな跳躍をして、きれいな着地を決めてどこまでも続く平原をそのまま走り抜けていくのであった。
「大変です、国王陛下! スピカ様が……スピカ様が誘拐されました……!」
「なんだと!?」
城へ来客があるため着替えを済ませて居室から客間へ移動しようとしていた国王と王妃に、兵士が大慌てで伝えに来た。
「なぜだ! 今日は乗馬の稽古で、それまで部屋にいたはずでは……」
「国王陛下、私から詳しい状況を説明させていただきたく存じます」
国王に報告していた兵士の背後から、所々服が破れたジェレミーと二人の城兵が顔を出した。
「ジェレミー! 一体どうしたのだ?」
「私が午後の講義の内容を事前にスピカ様にお伝えしようとしておりましたところ、彼女の私室に怪しい人物が侵入しようとしているのを発見いたしました。すぐにこちらの二人の兵を呼び捕えようとしたのですが、スピカ様を抱えて客間まで逃げ込み、そのままベランダから……」
「飛び降りたというのか! 信じられん……娘は無事なのか!?」
これには先ほどまで国王に報告をしていた兵士が答える。
「既に門番が馬に乗って連れ去られるスピカ様を確認したとのことです」
「あぁ……何ということ……」
一連の話を聞いて、王妃が力なくその場に座り込む。国王は執事に彼女をベッドに戻すよう指示を出すと、ジェレミーと二人の兵士に向き直る。
「ジェレミー、犯人の顔は見ておるのだろう?」
「恥ずかしながら、彼の顔をよく見る前に、鈍器で殴られ気絶させられてしまいました。服が乱れているのも、その際争ったことが原因です。しかし、彼らは誘拐犯の顔をはっきりと見ています。その特徴を……」
ジェレミーが話していると、部屋の外が急に騒がしくなる。どうやら、門番を担当していた兵士が大声をあげて何かを訴えているようだ。
「俺は門番のユーリってもんだ! 王女様が攫われるのをこの目で見た! 犯人は――城の窓拭きをしているアスベルって奴だ!」