05話
「ジェレミー!? 何を……」
普段自分に講義をしてくれている家庭教師から剣を突きつけられ、スピカは思わず身動きが取れなくなってしまう。
一方、ジェレミーはいつも通り冷静な表情を崩さず、その黒い瞳からは何の熱量も感じられなかった。
「スピカ様、どうかこのまま、大人しく私たちと一緒に来ていただきたい」
「どういうこと……? 折り入ってお願いがあるって……」
「えぇ、これがそのお願いです。急遽、大金が必要になってしまいましてね。恐れ入りますが、そのための道具となっていただきたいのです」
ジェレミーの言っていることは分からなかったが、この後何をされるのかは大方の予想がついた。彼は、スピカの魔法を金稼ぎのために悪用しようとしているのだ。
「いや……いやよ。どうして? ジェレミー……あなたは、あなたは私の……!」
「家庭教師です――今もね。これから始めるのは、社会の厳しさを教える講義だ……!」
ジェレミーが短剣を振りかぶり、その柄をスピカに対して振り下ろす――咄嗟に避けようとしたスピカは椅子と一緒に床に倒れ込み、振りかぶった勢いでジェレミーも床に手をついている。慌てて立ち上がったスピカは、部屋を見渡して咄嗟に近くの机に置いてあった男性を模した彫刻を武器代わりにしようと手に取り、ベランダの方へと走る。ジェレミーも立ち上がると、ゆっくりとスピカの背後に迫る。
大きな窓を開いてベランダに出たが、屋根の途中に設けられたその場所からは、とても飛び降りられるような高さではない。もっとも、激しく動くのにはそれほど適さないドレスに身を包んだ今のスピカでは、たとえ飛び降りられたとしてもジェレミーから逃げることは困難を極める。
「さぁ、大人しく私と来てください」
ベランダの手すりへ追い込まれたスピカに、短剣を構えたジェレミーが迫る。
――嫌……こんなところで……まだお城の外で星を見ていないのに……!
ジェレミーに追い込まれた恐怖で、スピカはこれまで苦痛だと思っていた軟禁生活が、どれだけ平和なものだったのかを思い知らされる。これからジェレミーに連れ去られた後に始まる生活は、一体どんなものなのか想像もできない――想像もできない世界がこんなにも恐ろしいことだと、スピカは生まれて初めて悟る。
――うふふ……いつかスピカにも、見れる日が来るわよ。その時は、どうか一緒にいられますように
結局は叶うことがなかったマーテルとの約束が、走馬灯のようにスピカの頭の中でこだまする。
――あぁ、マーテル……私はもう……
マーテルのことを想う時、スピカはいつも自室で天窓の向こうに広がる空を見つめていた――それが癖になっていたのだろう。ジェレミーに追い詰められマーテルとの約束に想いを馳せたスピカは、咄嗟に客間のベランダから空を仰いだ。
その時、スピカは自分の目を疑った――それはまるで、魔法のように、彼女が見上げた空から一人の青年がベランダに落ちてきたのである。
「うわあああああ」
ゴンッ
鈍い音が鳴った。目の前で起きた突然の出来事に、思わずスピカは顔を覆ってしまう。
「い……ってぇー!」
スピカが目を開けると、目の前に落ちてきた青年が、短剣を手から落としたジェレミーを下敷きにしてベランダに座っていた。青年は落下の衝撃によって強く尻を打ったようで、立ち上がることができず痛みに悶えている。
「あ、あの……」
ジェレミーの犯行に加え、空から少年が降ってくるという即座には理解しがたい状況に、スピカは混乱しながらも青年に声をかける。
「え? ……って、あ! も、申し訳ありません! その、別に俺、怪しい者じゃなくて、ただ、その、窓を拭きに来る途中で足滑らせちゃって、その、怪我は……ない、ですか……?」
少年も動揺しているのか、スピカに対して慌てて事情を説明していたが、そうしている間に冷静さを取り戻し、自分の足元に横たわる成人男性に気づくと慌てて立ち上がる。
「えぇっともしかして……これ、俺が……?」
黒髪――よく見るとわずかに青みがかった髪の青年は、深い海のような色をした瞳でスピカのことをまじまじと見る。麻の服に身を包んだ青年は王族に囲まれて生活しているスピカにとってはひどくみすぼらしく見えたが、その顔は容姿端麗であった――お互いに何が起きているのか理解できず、先ほどまでジェレミーに襲われていたことが嘘のように、二人の間を沈黙が支配した。
アスベルは、目の前にいる少女の風貌に見覚えがあった――この場合、聞き覚えがあった、という方が正しいのかもしれない。
――金髪……エメラルド色の瞳……
鮮やかな緑色をした瞳の女性など、王都を見回してもそうはいない――城内の人間に絞ればそれはなおのことだろう。
――まさか、この人が……
「ジェレミー様!」
「やっべ……!」
客間の前で待機していたと思われる兵士たちが入ってきたため、アスベルは思わず声を上げてしまう。
――これは、かなりまずい……
本来は普段担当していない窓の掃除をするため、いつものように命綱を使わずに屋根の上を移動していたら、慣れていない場所であるためか誤って足を滑らせてしまった。一瞬自分の命がそこで終わるのだと思ったが、何とか助かってみれば、どうやら王女様の関係者を踏みつけて、あろうことか気絶させてしまったようだ。
目の前にいる王女様も動揺しているのか、入ってきた兵士に対して何も言わず立ち尽くしている。
「あの! えぇと、これにはちょっとした訳がありまして……」
どうにか取り繕おうとアスベルが口を開くと、兵士たちがこそこそと何かを話している。
「おい……こいつ誰だ? ジェレミー様の計画は失敗したのか?」
「わからん、本人が倒れてしまっているようだし、状況が……」
――計画……?
城兵たちの言葉の意味が理解できずアスベルが戸惑っていると、突然視界の外から金髪の少女が現れ、手に持った銅の彫刻を振りかぶり目の前の兵士に振り下ろした。
「がっ……」
呻き声を上げた城兵が倒れ込むと、すかさず少女はもう一人に対しても彫刻を振りかぶり、二人は殴られた痛みで床にうずくまる。
――えぇ……どういう状況……?
突然の出来事に動くことすらできなかったアスベルに対して、目の前の少女が振り向き叫んだ。
「お願い、一緒に逃げて……!」