04話
「どう? スピカ。綺麗でしょう?」
「うん、すごいわ。こんなに綺麗だなんて知らなかった」
「そうねぇ。でも、世界にはこの空がもっと綺麗に見える場所もあるのよ」
「どういうこと?」
「仕方のない事だけれど、今のお城は明るいからね。本当はもっと暗いところで――たとえば、夜の草原なんかで寝転んで見上げれば、もっともっと綺麗な空に出会えますよ」
「そうなんだ……。マーテルは見たことがあるの?」
「私が小さい頃は、町なんてどこも今ほど明るくなかったからね。そりゃあもう綺麗に流れ星が見えましたよ」
「……なんかずるい」
「うふふ……いつかスピカにも、見れる日が来るわよ。その時は、どうか一緒にいられますように」
「うん、約束よ? マーテル――」
スピカが幼い頃、煌々と明かりが灯る王城のベランダから、数年ぶりにやってきた流星群をマーテルと一緒に見ていた。自分を城に閉じ込める両親に対して不満を抱えていたスピカだったが、空を流れる星を見た時は、それはとても些細なことなのだと思った。
マーテルは、それよりも綺麗な空があるのだという。当時のスピカには、とても信じられなかった――否、今のスピカも、それを完全に信じているわけではなかった。
だからこそ見たかった――どこまで続く暗闇の中に取り残された自分たちを、遠くから優しく照らしてくれるという、本当の星の輝きを。あの日以来、マーテルが聞かせてくれたそれを見ることが、スピカの夢になった。
「スピカ様――」
流星群到来もいよいよ翌日に迫った早朝、天窓に手を伸ばしマーテルを想っていると、私室の扉を誰かがノックし話しかけてくる。時間を忘れてしまっていたスピカは、乗馬の稽古に遅刻したのだと思い、慌てて椅子から立ち上がる。
「ご、ごめんなさい! い、今すぐ乗馬服に着替えますから!」
「いえ、スピカ様。乗馬のお稽古までには、まだ少々時間がございます。本日は、その前に折り入ってお願いがございまして、稽古に先んじて参った次第にございます」
どうやら声の主はジェレミーのようだ。
「そ、そう。それで? お願いってなに?」
「大変申し訳ございませんが、どうか一度、客間の方へお越しいただけないでしょうか」
「え、だけど……」
基本的にこれまでの生活において、スピカは城外からの来客が利用する客間に入ることは固く禁じられていた。城内の人間に対しても秘密が漏れることを嫌っている両親は、毎日のように城外の人間が訪れている客間には、絶対にスピカを入れたがらなかった。
「問題ございません。国王陛下にも、既にご了承いただいております故」
「そう……わかったわ、すぐに行く」
――これが例の、王女様の部屋の窓……
基本的に窓拭きの仕事は、部屋の中に誰もいないような時間を狙って実行されるのだが、昨日の朝ユーリと話した内容を思い出すと、やはり天窓の中の様子が気になってしまう。
――いやいや、何を考えてんだ俺は……! 万が一着替えの最中でも覗いてみろ……きっと処刑されちまう……!
自分に言い聞かせるように首を振ったアスベルは、いつものように王族たちの居室の窓をすべて拭き上げる。
「さて……今日は追加で、あっちの外壁か。ったく……結局仕事量が増えるなら、早く終わらせたって意味ねぇじゃねぇか」
これまで担当分の窓拭きを早々に終わらせているのを見た監督が、窓拭き最終日となった今日、いつもの担当分にさらに追加で仕事を押し付けてきた。ただし、追加された窓の量に対して、もらえる報酬が明らかに見合っていない。
「文句があるなら帰ってもらっても構わんが?」
「ぐっ……」
本当にアスベルが帰ってしまったら窓拭きが終わらないから困るのは監督なのだが、アスベルももらえるものはもらっておきたかった。どうやら窓拭きの経験者たちは、こういうことがあるから適当に仕事をしているのかもしれないと察したが、もう手遅れである。
――他の仕事も、今後はもっとうまく立ち回らねぇと……
新しく担当する部屋は、どうやら来客用の部屋らしく、ベランダにある大きな窓を清掃するのが大変だという話を事前に親方から聞いていた。
「はぁ……窓自体の高さもあるし、あの様子じゃ、今回は流石に命綱が必要そうだな」
王女の部屋から見えたベランダの様子からそう悟ったアスベルは、目的の窓のある城壁まで、いつものようにまずは命綱なしで駆け抜けていくのだった。
ジェレミーと二人の兵士に促され客間に案内されたスピカは、私室のものよりも豪華な来客用の椅子に腰を掛ける。
――ふっかふかね……!
ここで歴史の講義などされたものなら、ものの数秒で眠りにつける自信がある。
客間に行くにあたって適当な服装でもまずいと思い、スピカはマーテルからもらった深い緑色のドレスに身を包み、同系色のボディスをその上から重ねて身につけた。小さめのパフスリーブから伸びた袖の上から、いつものように左腕には金色のバングルを付けており、嵌め込まれたエメラルド色の『魔石』とドレスの色がよく調和している。
王妃らなど屋外に顔を出す王族や貴族の女性たちは胸元をレースのシュミゼットなどで隠すことがほとんどだったが、屋外に出ることがないスピカはこれを省略することが多く、四角くに開いたドレスの襟ぐりから鎖骨を覗かせていることが多かった。
アンクル丈のドレスの裾からさりげなく覗くペチコートのレース柄をスピカは気に入っており、その下には白いストッキングとリボンがついたサテンのシューズが垣間見えた。
兵士を客間の外で待機させ扉を閉めたジェレミーは、部屋の隅に置いてあるティーポットとカップを持ってきてテーブルの上に置いた。
「スピカ様、まずは紅茶を飲んでからお話をいたしましょう」
「え、えぇ」
乗馬の稽古までにそれほどゆっくりしている時間があるのだろうかと思ったが、スピカはジェレミーが入れる紅茶の香りに心を躍らせる。光が差し込んでくる方を見ると、そこには大きなベランダが付いており、それに見合ったスピカの背丈の倍以上はある左右開きの窓がついている。
窓の向こうには背の高い城壁が覗いており、今のスピカの位置からは見えないが、ベランダに出れば城内の庭を一望することができることだろう。
「さぁ、どうぞ」
ジェレミーの言葉を聞いて、普段とは違う来客用の紅茶が飲めるとスピカは心を躍らせる――しかし、差し出されたカップを手にしようとした途端、彼女の手はぴたりと動きを止めてしまうのだった。
――えっ……?
スピカ本人も、自らの行動に驚いてしまったが、楽しみにしていたはずの目の前の紅茶から、得体のしれない不快感を覚える。
「どうなされましたか?」
「あ……いや……」
ジェレミーの淹れてくれた紅茶を飲まないのも失礼だと思い、スピカは次第に心の中に膨らんでいく黒い渦を抑え、カップを手に取る。
しかし、その瞬間――
カッ
突然、ブレスレットの『魔石』が光輝き、手に取ったカップが割れてしまったのだ。
「ちっ……! やはりそう簡単にはいかないですか……ならば、仕方ありません――」
突然のことに動揺しているスピカに対して、ジェレミーは腰から抜いた短剣を突きつけるのだった。