03話
時は少し遡り、流星群到来まで残り二日となった日の早朝――
「おいアスベル――お前、調子に乗って落ちんじゃねぇぞ?」
「そういう親方こそ、足滑らせてそのままくたばるなよ?」
アスベルと呼ばれた青年は、廊下の端で身を屈めると、ダークブラウンのブーツの前紐をきつく縛りなおし、国王陛下の居室前を通り過ぎる。薄ベージュのリネン製スモックシャツの上から巻かれたブーツと同色の革のベルトには、仕事用の道具を入れるポシェットが括りつけられている。壁にかけられた鏡を見ながら明後日の方向にはねているわずかに青みがかった短髪を整えると、廊下の終点にある窓から外の様子を見る。
王族の住まう城内にはとても似つかわしくない彼のような装いをした男たちが、塔の屋根や回廊から自身の体を紐で吊るして窓の清掃をしている。
彼等は流星群という数年に一度の大イベントに先駆け、城中の窓を掃除するために臨時で雇われている使用人たちである。普段、城内では簡易的な清掃しか行わないため、清掃員として雇われている使用人の数もそれほど多くない――そのため、流星群が訪れる時期になると、窓を掃除するための臨時公募が王都全体に出されるのだ。
城の低い箇所から順番に窓の清掃を繰り返していき、流星群がやってくる前日――つまり、明日までに全体の清掃を完了させるスケジュールになっている。
「やっぱ国王ともなると、そんなに朝早くから活動しないもんなんすかね?」
昨日から国王の居室周辺にある窓の担当になったアスベルは、今日も間近で国王を見ることができずに少し残念がる。
「ばかやろう――俺たちみたいな下民と国王陛下が顔を合わせないように窓拭きの予定が決められてんだよ」
「ふーん……」
国民の中でも王城での仕事に従事している人間たちは、物理的に国王に近い位置にいると思うし、さらにその居室付近の清掃担当となったのであれば、その中でもとびきり国王に近い位置にいると思われるが、親方の言うように城内での人の流れの管理が徹底されているのか、明日までに国王やその他の王族と顔を合わせることは難しそうである。
親方と別れ、覗いていた窓を開けて屋根に身を乗り出すと、アスベルはまずその窓を水拭きする――その後、腰のポーチに入れた大きめの布で乾拭きをし、次の窓に屋根を伝って向かう。
他国の城がどういった構造になっているのかアスベルは詳しく知らなかったが、この城には緩い傾斜の屋根が多いと思っていた。彼にとってこれは好都合で、大人たちが命綱を頼りに慎重に移動するような箇所を青年は駆け抜けることができたので、他の使用人たちと比較しても早く仕事を終わらせることができていたのだ。
――いちいち紐を結んで昇り降りしてたんじゃ、いつまでたっても作業が終わりやしない!
昔から田舎の村で木登りばかりしていた経験が、王都でこんなことに役立つなんて思いもしなかった。
「おーアスベル! 今日も紐なしでやってんのか? 若いんだから、もうちょっと命を大事にした方がいいぞー!」
向かい側の外壁にぶら下がったおじさんが手を振って話しかけてきた――彼は数年前に流星群が来た時にもこの窓拭きをしていたらしく、アスベルに対してやたらと先輩風を吹かせてくる。仕事中に喋っているのが兵士にバレると、後で親方に叱られるのでアスベルは思わず渋い顔をする。
「おっさんも喋ってないでさっさと手動かさないと、いつまでも終わんねーぞ!」
「へっ! お前さんみたいな若いのに負けてられねぇな! 経験者の違いを見せてやる!」
そう言いながら窓を拭いていた彼が――あっ、というと、持っていた布が遥か下方へと落下していき、そこにいた城兵の目の前に落ちてしまった。
「おい、お前! 何をしている!」
「ひいいい!」
――なにやってんだか……
呆れながらも手を動かし続けたアスベルは周辺の窓を一通り拭き終えると、降りてきた塔の屋根をよじ登り反対側の窓を拭き始める。
今日と明日、アスベルが担当している窓は王族の居室のものだからか、変わった形のものが多い。その中でも特に変わっているのは、昨日から他の窓を拭いている際に目に入ったごく小さな天窓――部屋の中のことを探るのは業務上禁じられているのだが、アスベルはその部屋に対して違和感を覚えずにはいられなかった。天窓があるその部屋には、それ以外に窓が存在していないのだ。
南側に位置しているため、日が差し込まないということはないし、夜は寝転んで星を眺めることはできるのだろうが、他の部屋のようにベランダも着いていないこの部屋に住んでいる人間は、他の王族たちと同じような生活が送れているのだろうか。
「よし……!」
彼にとっては何ら関係ない疑問を抱きながら、担当分の窓を拭き終えると汚れた布をポシェットにしまい、アスベルは城の屋根を滑って降りていく。
「よっ、と」
滑り降りた屋根の端から低い城壁の上に設けられた回廊に着地すると、そこからは命綱を使って壁を降りていく――このルートで行けば、城の外に繋がる門の、目と鼻の先に辿り着けるのだ。
「おいアスベル! ちゃんと城の中を通って戻ってこい!」
門の脇に立っている窓拭きの監督を担当している人物に怒鳴られた。
「別にいいじゃないすか。城の中を通らなきゃいけないなんてルールないでしょ?」
「お前が怪我でもしたら、俺が上に叱られるんだよ! 他の奴らもまだ頑張ってるんだから、一人だけさっさと終わらせて抜け駆けしようとするな!」
「早く終わる分には問題ないでしょ? どうせ給料も変わらないんだし」
そのあとも諸々文句を垂れた監督だったが、アスベルが袋を差し出すと今日の分の報酬を入れてくれた。
――それじゃ、と言って門を通り抜けようとすると、アスベルは何かに躓いて転んでしまった。
「おわっ!」
突然の出来事でうまく受け身を取ることができず、顔を地面にぶつけてしまう――いってぇ、と思いながら顔を上げると、顔見知りの門番が背後から顔を覗かせていた。
「あれー? 悪いなーアスベル。どうやら、俺の長い足が引っ掛かっちまったようだ」
「ユーリ……! てめぇわざとやりやがったな!」
それはここ数日、アスベルが窓拭きを終えるタイミングで必ず門番に立っている、ユーリという青年だった――歳が同じであることが分かると、二人は自然と敬語を使わず話す関係になっていたが、決して仲がいいわけではない。
「いやいやアスベル、自分の視野の狭さを俺のせいにされてもねぇ?」
「この野郎……いまこの間のケリをつけてもいいんだぞ!」
「おいおい、あれはお前が適当な窓拭きをしてたからいけないんだろ? おまけに、窓から年頃の王女様の部屋を覗くなんて……」
「の、のぞいてねぇ! そもそも、なんであの辺りに王女の部屋があるなんて知ってんだお前は! お前こそ、覗いたことがあんじゃねぇのか!?」
「なっ! て、適当なこと言うんじゃねぇ! 確かに王女様は綺麗な金髪に美しいエメラルド色の瞳をしておられるが、天窓から彼女の私室を覗いたことなど……!」
「やけに詳しいなお前……。そうやって趣味の悪い情報収集ばかりしているから、いつまでも門番どまりなんじゃねぇの?」
「お前なぁ!」
ユーリが殴りかかってきそうになったのでやり返そうとすると、様子を見ていた別の兵士が彼の後ろから鬼の形相で迫って来ていたので、アスベルは慌ててその場を後にする。
急いで走っていると、背後から怒鳴り声と自分の名前を呼んでいるユーリの情けない声が聞こえてきたので、走りながらアスベルは笑ってしまうのだった。