02話
スピカたちの生きるこの時代において、魔法を使える人間はほとんどいない――少なくとも、彼女の父である国王が把握している限り、その人数は数えるほどしかいない上、それを何かに応用できるほどの水準で扱える者は、一人としていなかった。
そのため、人を癒す魔法を使える王女スピカは、王国が把握している限りでは唯一の魔法使いであると言っても決して過言ではなかった。
「おぉ! スピカ様、ありがとうございます! 包丁で切った傷が嘘のように消えてしまわれた!」
「私にできることをしただけよ。これからは気を付けて。また何かあったら遠慮せずに言ってね!」
膝丈のドレスを身に纏った幼い頃のスピカは、城内を駆け回り、怪我をしてしまった使用人を治療していた。切り傷でも、あざでも、骨折でも、たちまちに治してしまう自身の魔法を、当時の彼女はとても誇らしく思っていた。
しかし、その力を金儲けのために利用しようと、『王女誘拐計画』なるものを企てた使用人が現れたことで、事態は急変した。今思えば、世にも珍しいその力にスピカや彼女の両親は感動するばかりで、それが周知されることに対する危機感というものを持ち合わせていなかったのかもしれない。
幸いにも、スピカが攫われてしまう最悪の事態は避けられたが、この事件はスピカの家族に大きな傷跡を残すこととなる――その一つは、王妃の暗所恐怖症だった。
城の灯りがほとんど消えた深い夜に誘拐計画は遂行され、その際実行犯に刃物を向けられたことがトラウマとなり、王妃は暗い空間にいるとパニックを起こしてしまうようになった。以降、城内は常に明かりが灯されるようになり、王都の中心にそびえ立つ王城は、夜が明けるまで煌々と光を放っている。
事件が残したもう一つの傷跡は、王女であるスピカの私生活の変化だった。誘拐されるという危険に晒されたことで、両親は彼女を城の中に匿うことにした。二人は彼女の行動範囲を城内に制限し、自室で過ごす時以外は常に誰かが彼女と同行するようになった。
さらに、当時城で働いていた使用人たちも信頼のおける人物たち以外はすべて入れ替えられ、スピカが魔法を使えることを知る者は城内にほとんどいなくなっていた。
何とも息苦しい生活を余儀なくされているスピカの心の拠り所は、幼い頃から家庭教師を担当していたマーテルという老婦だった。
そもそも、スピカが傷を癒す魔法を使えるようになったのも、『魔石』と呼ばれるエメラルド色の石を、マーテルから譲り受けたことがきっかけだった。
彼女は晩年、寝たきりになってしまっていたが、毎日のようにその手を握ってくれたスピカに対して、最後にこう言い残した。
「許してちょうだい……。その石は将来、あなたを不幸にしてしまうものかもしれない。あなたは嫌がるでしょうけれど、その身に危険が及ぶようなら、どうかその石を砕いてほしいわ」
当時、彼女の遺言を聞いていた使用人たちは既に城から離れていたが、スピカの魔法の根源たるその石を国王たちは砕こうかとも考えた。
「だめ! これだけは!」
しかし、マーテルの言った通り、スピカはそれを強く拒んだ。その石は、そのバングルは、マーテルの形見同然だった。
さらに、石を砕けない理由はもう一つあった――恐怖症とはまた別の、王妃の病である。
昔から王妃は体が弱く、特に体調が優れない日は、一日の大半をベッドの上で過ごすことさえあった。城に呼んだ国一番の名医だという人物も、彼女の病気が何なのかは分からなかった。
魔法を使えるようになってから、スピカは毎日のように母に魔法をかけた。スピカと王妃、二人の全身を温かな光が包むたびに、王妃はスピカに対して感謝の意を込めて優しく微笑んだ。それまでは立ち上がり歩くこともままならなかった彼女は、やがて城の外へ散歩に出かけられるほどに回復した――否、正確には、そうなる日もあった。
スピカが魔法をかけても、王妃の体調はしばらくするとまたすぐに戻ってしまう。魔法をかけたにも関わらず、次の日に全く起き上がることができないような日も中にはあった。
スピカは、自分の魔法が弱まってしまったのではないかと疑ったが、他の人で試しても、問題なく傷を癒すことはできた。また、自分の魔法は風邪や病気には効かないのではないかとも思ったが、幼い頃、肺炎になった使用人の家族を治したことがあるため、決してそんなことはないのである。
重症の患者に対して魔法をかける時は、傷が癒えるのに時間がかかることが分かっていたため、母の病気はとても重いものなのだろうとスピカは父と話したことがあった。
だから彼女は、それ以来何年もの間、毎日王妃の手を取って彼女に光を届け続ける。幼い頃にマーテルがスピカを寝かしつけようと昔話を聞かせてくれたように、スピカが母の寝室で魔法をかけることはいつしか日課となっていた。
「お母様……」
光が収まった王妃の手を取ったまま、スピカはその目をまっすぐに見つめる。エメラルド色をした娘のそれとは異なり、両親はともに紺碧の瞳を持つ。
恐る恐る、スピカは自身の願いを口にする。
「私、今年の流星群は、お城の外で見たいの――」
「スピカ……」
先ほどまで晴れていたはずの王妃の顔が途端に曇る。城の外へ出たいと過去に相談した時も、スピカはことごとく二人に拒まれてきた。
「お願い! 護衛の人も一緒にいてくれれば、悪い人が来ても守ってもらえるでしょう? ちょっとくらいお城の外へ出たって、危ない事なんか……」
「スピカ、あなたの気持ちは痛いほど分かります。でも、あなたが攫われてしまったら、私、生きていけない……」
言い終わらぬうちに、王妃は咳をし始める。
「お母様……!」
数年に一度の流星群を城の外で見たいという願いをこれまで口にできなかったのは、心配性な王妃が体調を崩してしまうことを恐れていたからだった。咳が落ち着いた母をベッドに寝かせた後、一度部屋を出て父と話す。
「スピカよ……お前の気持ちも分かるが、どうか、彼女の気持ちも分かってやってはくれんか。私も、お前のことを心配しておるのだ」
「わかっています、それくらい……」
それだけ言い残し、スピカは私室へと駆け足で戻る。
自覚はしていなかったものの、よほどの剣幕で廊下を歩いていたのか、私室の前に立つ兵士がひどく驚いていた。それを横目に部屋に入ると、スピカはすぐに扉を閉め、力が抜けたようにその場に座り込む。真っ暗な部屋の中から天窓を通して見える星空は、先ほどより美しく見えた。
しかし、天窓からしかそれは見えない――
――あぁ、マーテル……
既に手の届かないところにいる愛しき人に想いを馳せながら、ガラス越しの星空へその手を伸ばすのだった。