10話
時は少し遡り、アスベルたちが王都を抜け出した後、国王が王女捜索のための部隊を急遽編成している最中のこと――
「旦那、これじゃあ話が違うんじゃねぇのか?」
「違うんだゴードン、途中でガキに邪魔されて……どうしようもなかった!」
「約束したのは王女の身柄と金の交換だ――その王女は今、城を抜け出して街の外だって? お前のおかげで計画が水の泡だ」
「ま、待て! 待ってくれ。必ず王女を取り戻してお前たちに引き渡す。だから、約束の金は……」
「もう遅い――。城で王女を捕えられなかった以上、お前と組む理由はなくなった。今回の話も無しだ。あばよ、ジェレミー」
「待ってくれゴードン! 私にはどうしても金が……」
「しつこい!」
ゴードンと呼ばれた大男が掴まれた腕を大きく振り払うと、ジェレミーの体は宙を舞い城壁に叩きつけられる。王女捜索のために城中を駆け回っている兵士たちは、城の中庭で会話をしている二人には見向きもしていなかった。
体を強く打ち地面にへなへなと座り込んだジェレミーは、意識があるようだがもう一度立ち上がろうとはしなかった。ゴードンという男の力はとても人間とは思えないようなものであり、腕を振り払った際に光輝いた小さなペンダントが、静かに光を失っていく。
「ふん……石の力を使ってもこの程度か」
そう独り言を呟き、ゴードンは城を後にする。しばらく歩いて王都のはずれまでやってくると、彼のことを待っていた部下たちが深々と頭を下げた。
「お待ちしておりました、ボス。国王によって編成された王女捜索隊が、順番に王都から出発しているのを確認しております。それぞれの部隊に二名ずつ尾行をつけており、王女を見つけ次第、他の仲間へ連絡する手筈となっております」
「よし――。俺は王都の南にある森へ向かう。王女が脱出した方向で最初に立ち寄るなら、周囲の視界を遮れるあそこだろう。何人か俺についてこい。残りの連中は、これまで通り王都から出発する捜索隊の後をつけろ」
「了解――」
黒い大きな馬にゴードンが跨ると、同じように馬に跨った三人の部下が彼の後ろにつく。
「王女が城の外に出ているこの好機……今後二度と訪れることはないと思え! 何としても、王女とその左腕の『魔石』を奪い取れ!」
ゴードンが高く手を掲げると、部下たちが一斉に鬨の声を上げた。
ユーリに発見され咄嗟に白馬に乗って逃げたアルベルとスピカは、森のさらに深いところまでやってきていた。先ほどまでスピカが魚を取っていた小川はその先にある渓谷で小さな滝となって、深い谷底を流れる大きな河に合流していた。
しばらく森を走り続けた二人は、谷を目の前にして再度休憩を挟むことにした。
「この渓谷はしばらく続いていて、最寄りの橋はちょっと北に行ったところにある一つだけだから、渡った後にそれを落としちゃうっていう手段もなくはないかな」
アスベルが谷を覗き込みながら流暢に喋るのでスピカは目を見張る。
「あら、随分とここについて詳しいのね。まるで来たことがあるみたい」
スピカの言葉にハッとした表情を浮かべるアスベルは、慌てて彼女にそれを悟られないよう顔を逸らす。
「こ、この渓谷はいい魚が釣れるって、王都でも有名な場所だからな」
――ふーん、と怪しむように呟いたスピカだったが、それ以上は追及しなかった。
馬の足を止めると、アスベルは首を優しく撫でてあげる――お前も疲れたろ? と心の中で尋ねると、それに答えるように優しく白馬が鳴いたので、何だかコミュニケーションが取れているような気がした。
スピカの手を取ってゆっくりと彼女を下ろしてから自分も馬から降りる――相変わらず彼女の手は小さく柔らかく、爪は綺麗に整えられていて美しかった。女性のエスコートの仕方など心得ていなかったが、アスベルは自身の中で形成されている紳士の人物像を可能な限り再現しているつもりだった。
スピカにそれを見破られていないか気にしていたアスベルだったが、彼女は全く気にした風ではなく、馬から降りたアスベルの服を見て子供のように呟くのだった。
「アスベル、胸に何かついているわ」
「え?」
アスベルが指さされたスモックシャツの胸部を見ると、確かに赤い果実のようなものが潰れてシミになっていた。――あぁ、とアスベルは呟くと、それを指で取って舐めてみる。甘酸っぱいそれは、幼いの頃によく森で食べた懐かしい果実の味がした。
「うん、モリイチゴだな。この辺りにも生育してるのか……」
「森で採ったものを、そのまま食べるの……?」
純粋なスピカはアスベルの手を取ってその指先についたモリイチゴを注意深く見つめるので、思わずそのエメラルド色の瞳に吸い込まれてしまうのではないかと錯覚する――温かなスピカの手を慌てて払い我に返ったアスベルは、指についた果実をシャツの端で拭くと白馬を木に紐で括り付ける。
「そ、そうそう。王女様はご存じないかもしれませんが、あなた方が口にしている果物たちだって、元々はこういった森などで採れるものが多いんですよ?」
「ちょっと、王族をバカにしているの? それくらい知ってるわよ。私が言いたいのは、洗ってもない果物を食べてお腹を壊さないかってこと」
「スピカ様こそ、庶民をバカにしておられるのですか? その程度でお腹が壊れるのは、普段から清潔なものしか口にしておられない、王族の方々だけでございますぅ」
わざと敬語を使ったアスベルが顎を突き出して煽るようにスピカを見るので、彼女も少し苛立ったのか腕を組んで何かを言い返そうとアスベルを睨む――しかし、言いたいことが思いつかなかったのか、目の前にある青年の顔が面白かったのか、またはその両方か、スピカは腕を組んだまま唐突に――ぷふっ、と笑いだすと、呆れたように腰に手を当てて空を仰いだ。
「変な顔――まぁいいわ。確かに、お城の中でしか生活していなかった私の方が、外の世界で異常なのは間違いないもの」
「異常って……別にそこまで言ってるわけじゃ……」
スピカの笑顔に心が洗われていたアスベルだったが、彼女の口にしたその言葉を聞き捨てることはできなかった。確かに城の中で生活している王族が特別な存在であることは間違いないが、目の前にいる少女が異常などとは微塵も思わない――むしろ、何年も城の中でだけ暮らしているにしては、好奇心と行動力に溢れる逞しい人間であるようにアスベルは感じていた。
――いいのよ別に、とスピカはアスベルの言葉を手で遮った。
「正直、モリイチゴがどんな味なのかも私は知らないの――甘酸っぱいって本に書いてあるのを読んだことがあるだけ。そういうものが、私にはたくさんあるの――知らないことだらけ……。さっき捕まえた魚だって、なんて名前なのか私は知らない。世界にどんな場所があって、そこにどんなものがあって、どんな動植物が生きて、死んでいくのか……」
――マーテル、流れ星だけじゃない。物心ついてから私は、この世界にあるあらゆる物の、『本当の姿』を見たことがないわ……
マーテルのことを考えると、スピカはいつも空を眺める――その時、自分がどんな顔をしているのかを、スピカは想像したこともなかった。なぜなら、その顔を誰かに見られるという経験を、今までしたことがなかったからである。
しかし、今彼女の隣にいる青年は、はっきりとその横顔を見ている――空を仰ぎ、何かを想い、ひどく切ない、物憂げな表情の少女を見て、青年は何かを決意した。
「別にそんなの、これから知ればいい――」
まるで自分の想いを汲み取ってマーテルが答えてくれたのかと思うようなその言葉に、懐かしさを覚えながらスピカは我に返る。
「ってことで、まずはモリイチゴの味からだな! 採って来てやるから、ここで待ってろ!」
そう言って満面の笑みを浮かべた青年は、スピカと馬を置いて森の中へと駆けて行ってしまった。
何故だか彼の向けてくれた満面の笑みが、スピカの脳裏に焼き付いて離れることがなく、彼の後ろ姿が消えていった森の中を、しばらくの間見つめていたのだった。