1-3 ムクチャン・ワヌヌは伝えたい
ボッチャンが戸を叩くと、ムクチャンの娘モコチャン・ワヌヌが玄関を開けてみんなを招き入れた。
「お父ちゃんは、寝たですよ」
訪ねて来た全員にお水を出して、モコチャンは言う。
「そうかね」
頷くチョーローに、モコチャンの顔がみるみる曇る。
「最近は、起きてる時間が少ないですよ」
それを聞いたチビチャンら若い衆の尻尾が萎萎と垂れる。
耳鳴りと幻聴のせいで軽めの奇行が見受けられるムクチャンであるが、正気の時は含蓄深い。
ワヌヌ一族の子供達はみな『たまに変で面白くて物知りなおじいちゃん』に親しんできた。
大きく育っても自分はずっと小ちゃいままだと信じているチビチャンに、ぴったりサイズの可愛い子供用ベッドを作ってくれたのがムクチャンだ。
チコチャンが怪我をした時、首に手編みのすてきなカラーを巻いて、見栄えの素晴らしさをたくさんたくさん褒めそやした後、とっても似合うからみんなに見せておいでと水を向け、傷口から気を逸らしたのがムクチャンだ。
コロチャンとマロチャンの名付け親にして、すぐ迷子になる双子を真っ先に見つけられたのがムクチャンだ。
ベッチャンが赤ん坊の頃、夜泣きで眠れず弱り果てていたボッチャン夫妻が休めるようにと、ぐずるベッチャンを引き受けて抱っこ紐でお散歩してくれたのがムクチャンだ。
そのムクチャンが、今や死の淵にいる。だが死の淵においてなお、常人には測る事のできない何かから知り得た危機を伝えようとしている。
今度こそ。今度こそは、ムクチャンの警告をきちんと読み取って、未来の災禍を防いでみせる。決意を新たに身を引き締める一同の元へ、
「おお、モコチャン、モコチャンや」
と、娘を呼ばう掠れ声が床の間から聞こえてきた。
モコチャンは楚々と床の間へ向かい、チョーロー達を招く。
部屋の床はきれいに片付いており、壁には見舞いの品幾つもが掛かっている。中央の布団に、浅く呼吸を繰り返すムクチャン・ワヌヌが横たわっていた。
ムクチャンは濁った瞳を出入り口付近へと彷徨わせ、小刻みに震える感知ヒレを擡げて、口をパクパクと開けた。
ゆっくりと布団から出てきた前足は強張って何処を差すとも覚束ない。
「チョーロー、は、来たか、それとも、まだか」
「呼んだかの、ムクチャン?」
自分の名が出て、チョーローは思わず声を上げた。瘦せ衰えた旧友が力なく横たわる様を見せつけられ、詰まる胸に気管がキュウと音を立てる。
視力はもうないだろう事は分かっているが、口に笑みを貼り付けて、布団からはみ出たおててを握るために歩み寄った。
「ああ、ああ、来てくれたか」
呼吸と一緒に漏れる掠れきった声は、心穏やかな旅立ちとは思えぬ嘆息。
病床にありながら、ムクチャンの耳は聡かった。モコチャンから外の様子を聞き、様々な精霊の噂話を聞き、何より元気にはしゃぐ子供の音がしない静かな日常を聞いていた。
零れるような咳払いを何度かして、ムクチャンは近い将来訪れるつらい運命を思い眉根を寄せた。
今からする話は、したくない。だが、しなければならない。チョーローには、絶対に。
「まず、約束を、してほしい」
「どんなじゃ?」
「お父ちゃん、聞いてからじゃないと、分からないですよ」
チョーローが小刻みに頷いて先を促すのに対し、ハラハラと落ち着かない様子のモコチャンが老いた父親に膝を詰める。
ずっと一緒に暮らしてきたモコチャンには理解できる。これから何か悪い事が起きる。けれどムクチャンはもう寿命だから、見捨ててほしい。そう言いたいのだろう。聞きたくないけれど、父親の言葉なのだ。どんな一言でも聞き逃したくない。
幸いモコチャンは頑丈だから、うんと答えて、反故にすればいいのだ。ちいちゃくなったお父ちゃんなんて、簡単に負ぶってどこにでも逃げられる。
「おそらく、わたしができる、最後の警告だろうて」
ムクチャンは声と一緒に体温を感じさせない爪先も毛がポサポサになった感知ヒレも震わせる。
「おや、まあ、そんな事を言わんでおくれ」
自分より年上の敬愛する老爺の、気弱でありながら厳格な言葉に、チョーローが応じる。
「空は焼けた石、山は熔けた石の川。火の精霊が、招かれた時」
「それは、どういう」
物騒な単語の羅列に、チョーローとボッチャンは息を吞み、怯えたチビチャン達が身を寄せ合った。誰ともなく、キューと甲高い鳴き声が虚しく響く。
ふさふさのコボルト達はノコギリ山で能天気に暮らしていきたいだけなのに、運命がそれを許さない。
「耳だけでなく、目もあちらに、取られた、らしい」
もう片方の前足で小さく唸って涙を堪えるモコチャンの膝を撫で、ムクチャンはフフと嗤う。
「ノコギリ山が、噴火する」
「そ……それは、いつじゃ」
「誰かが、火を、熾す時」
今はワイバーンの襲来を恐れて誰も煮炊きなんてしていない。夜だって火なんて使わない。
だから、チョーローはほっと安堵して考える。集落の全員を集めて物資をまとめさせ、避難させるのに何日かかるだろう。余裕をもって、二週間くらいを考えようか?
しかし、火を熾すとは。ワイバーンに襲ってくれといわんばかりの目印を作るなんて、一体誰が、そんな愚かな真似を?
「……ベッチャン」
ボッチャンが、ふと愚息の名を口にした。
言われて、コロチャンとマロチャンが、はっと目を合わせる。
『ねえねえ、へびちょうだい?』
『だめ』
ついさっきした、自分たちの会話が蘇る。
『へび食べたらいけないの?』
『生はだめ』
あの時、あの時、どうに答えてもらったっけ。
『―――でもね、焼けたらいいよ』
ふたりはぱっと立ち上がるや、踵を返そうとして頭をごちんとぶつけ合って尻もちをつく。
その転んだ勢いで我先にとムクチャンの家を飛び出した。
「うわあああ!」
「大変だぁあ!」
ベッチャン・ワヌヌは優しくて、行動力があって、とってもとっても、アホなのだ。
チョーローのお言い付けを守れないくらい、どうしようもなく、アホなのだ。
「縄解いて、へび焼いちゃう~!!」
「ベッチャン、焚き火、しちゃう~!!」
(※アホは紐を嚙み切る事に成功しました※)