1-2 チョーローの後悔
「話とは何じゃろうのぅ?」
チョーロー・ワホンは上空に気を配りつつ、空惚けた風を装って独りごちる。
経験から、妄言混じりのムクチャン・ワヌヌが発する忠告はよく当たる事を知っているのだ。
己が肉体自慢のオーガが暴虐的なマッシヴを頼りに群れを成して襲撃してきた時の事を思い出す。
居間で湯呑を手にチョーローの訪問を喜んでいたムクチャンが、急に胡乱気な目つきをしたかと思うと「はあ、朔月に牙到るとは……? ええ、ええ。朔月努々忘るるなと。はい」と、見えない何者かと会話を交わし始めた。
頻りに耳を痛がりながら娘のモコチャンを揺す振って「朔月、朔月だそうな」と繰り返した、あの、とても演技だなどとは感じられない不安そうな面持ち。
鬼気迫った表情を重く捉えたチョーローは、迫る新月の前、集落中の皆々を集めて指示を出した。
家々の外壁を土砂で塗り固めて山肌のように偽装させ、施錠の更に内側へ家具を積んで息を潜めて隠れる。
夜が来た。
月明かりのない暗い暗い夜だ。
チョーローは、目を凝らして暗い外を睨み続ける。
遠くから、オウ、オウ、と物々しい喧騒が近づいて来る。
到る牙とは、オーガであった。何か重い物を引き摺りながら山を登ってきたオーガ共は、咆哮を上げてはそこらの岩や灌木を荒し回る。
音と振動は一晩中続き、堪え切れず泣き声を漏らしてしまったキャフン一族のある一家が食われた。
朝になり、恐る恐る表へ出ると、チャカチャ・キャフンとその家族の姿はなく、状況は凄惨の一言に尽きた。
みんなで掘った洞窟は荒され、椅子や机などの残骸が散らばり、辺りには鉄と脂の臭いが充満していた。
地割れが起きる程の地震に見舞われた時もそうだ。
「椿は根に根に真白の苔生してゐる。芽生えるは鳴く鳴く七日に。頃合いは雨の日、晴れる時」などと風の精から告げられたのだと、たどたどしい舌で言い募った。
ムクチャンが風の精のお告げを知らせてから数日後、雨天が突然晴れた日に、それは起きた。
非常食作りに精を出す女房達の賑やかな姿。
避難訓練に飽きて水溜りの上で跳ねる子供達。
合羽を着込んで順繰りに家の補強をしていく男衆。
長閑な日常は、地面の下から突き上げられて、終わった
。
たたらを踏む間もなく転げ、転ぶそばから頭を打ち、背も肩も胸もあちこちぶつけ、腰が砕けた。
回った視界には混乱と痛みで火花が散る。
全身の骨が粉々になったみたいだ。鋭く長い地震に、感知ヒレが麻痺してしまい、体勢が全く整わない。
チョーローは自宅に向おうとした。中に妻がいる。
住民は二百匹にも満たないが、その中で重鎮を占めるワホン一族の家は元々造りが良いからと、今回の補強を後回しにしていた。
古くてガタが来始めている建付けを甘く見たのを、ワホン達は身体が頑丈にできているからと高を括ったのを、チョーローは焦燥感の中で悔いた。
同い年の妻。
美しさは若い頃のようにとはいかないが、弛んだ口元を今でも愛している。
まぶたの奥にあるきらきらした瞳を、歳を重ねて落ち着いた毛並みを愛している。
気立ての良い連れ合いだ。古い家の中に置いてきて、怖い思いをさせてしまったに違いない。
早く助け出さないと。
前進すべく地面を掴んだ前足が自分から流れ出た血で滑って、チョーローの意識はそこで途切れた。
気が付くと、集落のすぐそばの尾根が捲れるように割れて、斜面に生えていた木々がゴッソリと消え失せている。
裂け目からは白い地層が晒されて、赤い山肌と相まって不気味な花弁のようだった。
ワホン一族の凡そ半数が死んだ。妻もその内の一匹だ。
一行を先導するチビチャンの鼻歌。
軽やかに跳ねるチコチャンの足取り。
焼けたらいいよと言われたへびに思いを馳せて舌をペロペロさせるコロチャンとマロチャン。
彼らの背後で、チョーローの気分は重く沈む。恐らくボッチャンも同じだろう。
薄れぬ過去、苦い経験が警鐘を鳴らす。
ムクチャン・ワヌヌが何かを言う時は災害が起こる。決して聞き漏らしてはならぬ。心して備えねばならぬ。
ノコギリ山の中程にある谷の集落は規模が小さく、端から端まで一時間もかからない。チョーローの家から出発した一行は、三十分でムクチャンの家に着いた。
(※アホのベッチャンは杭から紐を外そうと孤軍奮闘しています※)