その8 「月桂樹」
小鳥遊みらのは動かない。
11月中旬、日曜日の朝7時、ベッドの上である。
手にしたスマホの画面には、今日、一緒に映画を観に行く予定だった友人からの、
『我昨日発熱 流行性感冒陽性 無念 倒』
というメッセージが表示されていた。
今年はいつまでも猛暑が続き、11月に入っても半袖でなければ汗が流れる日があるほどだったが、一昨日の夜から突然いきなり急転直下、最低気温がひと桁台まで下がった。
友人が体調を崩し、発症してしまったのも無理はない。
昨日発熱して、今朝まで連絡がなかったということは、昨夜は連絡する気力が湧かない、あるいは思いつかないほどの状態だったということだろう。
大丈夫なのか。
というか、なぜ中途半端な漢文調なのか。
さらには、金曜日まで当の本人と真横で喋っていた自分は大丈夫なのだろうか、というところが、ちょっと気になった。
『了解 祈願快癒 安眠』
と返信し、みらのは、ひとまず洗面所へと向かった。
この時点で行うことに大きな意味があるかは分からないが、とりあえず、あらためて念入りにうがいをしておく。
それにしても、流行性感冒か。
(そうだ、念のため、いつもよりも体を温めといたほうがいいかな)
家のなかでは裸足で過ごすことが多いみらのだが、今日は靴下をはくことにする。
さらに、いつもは冬本番になってから登場する赤い毛織のショールを出して、首から肩にかけてをおおうように巻きつけた。
「山の茶を飲むがいい」
「うわ」
背後から急に声がして振り返ると、赤い毛織の衣をまとったスパルタ人が、部屋の入口から半身だけ姿を見せていた。
「山の茶を飲むがいい」
「山の茶……あ、ハーブの、シデリティスのこと? 今、うちにはないかな。ていうか、なんでそんな遠くから」
「疫病は危険だ」
「疫病……まあ、うん」
古代ギリシャでは、ペロポネソス戦争の時代に疫病が流行し、多くの人々が命を落としたという記録が残っている。
「あとは、疫病を鎮めてくださるよう、アポロン神に祈るがいい」
「アポロン神に」
「供儀を忘れるな」
「供儀を」
繰り返すみらのをおいて、スパルタ人は静かに立ち去っていった。
「供儀か……あ、そうだ。母さーん! キッチンのスパイス借りていーい!?」
「……えー? スパイスー!? 瓶のやつ?」
「それー!」
「いいよー! 何、カレー作ってくれんの!?」
「チャイ!」
「チャイ!? ……あー! チャイ! 母さんにもちょうだーい!」
「OK!」
みらのはキッチンに行き、小鍋をひとつと、紅茶の缶、母親がカレー作りや菓子作りに使っているスパイスの瓶を並べた。
体の内側からも温める作戦だ。
「母さーん! 冷蔵庫のショウガ、使っていーい!?」
「ショウガー!? あったっけ!? いいよー!」
半かけ残っていたショウガを皮ごと細かく刻んだもの、黒い短い釘みたいな形のクローブをひとつまみ、カルダモンをひとつまみ、シナモンスティック1本分を折り砕いたものを、だしパックに詰め込む。
ふだんのレシピではここまでだが、今日は、ローリエの葉を1枚、ぱきぱきと折って加えた。
主に、乾燥させた葉を煮込み料理の風味づけに使う、あれである。
フランス語でローリエ。
日本語で、月桂樹。
古代ギリシャ語では、ΔΑΦΝΗ。
アポロン神に見初められたニンフが、かの神から逃れるために変身したといわれる木。
(ちゃんとした供儀の作法とは全然違うけど、アポロン神に思いを馳せつつ、ってことで……でも、本人、というか、ダプネーさんの気持ちは微妙かもしれない)
鍋に水を入れ、だしパックに詰め込んだ香辛料類と、同じくだしパックに詰め込んだ、ミルクティー用の紅茶の茶葉を放り込み、火にかける。
ぐつぐつと煮出していくうちに、キッチンは爽やかなスパイスの香りでいっぱいになった。
しばらく煮出してから、鍋に牛乳を注ぎ入れ、沸騰して吹きこぼれるぎりぎりのところで火を消す。
「母さーん! できたよー! 砂糖、蜂蜜はお好みでー!」
「OK! サンキュー! 置いといて!」
「OK!」
みらのは人数分のマグカップにチャイを注ぎ分けてから、鍋を洗い、ボトル入りの蜂蜜を自分のチャイにしぼり入れた。
「ぬう……不可思議な香りッ」
「あ、来た! これ、チャイ。あなたたちからすると、西方の飲み物」
スパルタ人は怪しむような表情で鼻をうごめかせ、彼らの土地には産出しない香辛料類の香りを嗅いでいたが、
「今日は、月桂樹も入れてみたよ」
とみらのが言うと、
「ピュティア競技祭の栄冠だな」
と呟き、
「いる?」
「いや」
とだけ言って、また立ち去っていった。
おそらくは、慣れない香辛料の香りに辟易したのだろう。
「美味しいのに……」
ショウガをたっぷりと加えた効果か、指先まで一気にぽかぽかしてきた。
チャイを飲み干し、マグカップを洗い、先ほど使った小鍋にいっぱいの水を汲んで、みらのは家の裏口から外に出た。
家の裏の軒下の、雨がかからない場所に、つやつやとした緑の葉を茂らせる、みらのの背丈と同じくらいの木の鉢植えが置かれている。
月桂樹だ。
料理には、もっぱら市販のローリエを使っており、この月桂樹は観賞用として育てている。
この夏、初めて、蕾がついた。
それがいつまで経っても咲かず、しびれを切らして検索したところによると、開花の時期は、なんと来年の4~5月らしい。
春の開花のために、前年の夏からもう蕾を準備しているという、なんとも気の早い植物だ。
(無事に咲きますように)
と願いを込めて、小鍋いっぱいの水を月桂樹の根元に注ぐ。
一昨日までの暑さが嘘のように、寒さが手もと、足もとから忍び入ってきた。
雨も、しばらくは止みそうにない。
今日は家でゆっくり、ヘシオドスの『仕事と日』でも読もう。
そう心に決めながら、みらのは静かに裏口の扉を閉めた。