その7 「梅の実」
小鳥遊みらのは動かない。
梅雨の真っただ中の、貴重な晴れ間。
洗ったように澄んだ光が射しこむ、休み時間の前庭にて――
(美味しそう)
みらのがじっと見上げているのは、彼女の身長の二倍ほどの位置で、枝に鈴なりになった梅の実である。
楓ヶ丘高校の前庭には、二本の梅の木があった。
ひとつは紅梅、ひとつは白梅。
そのうちの白梅に、今年も実がなったのである。
数日前まではみどり色だった実が、光を受けて、ほんのりと赤みがかった黄色に輝いていた。
根元の花壇を見てみれば、落ちて転がっている実もいくつかある。
ひび割れたり、茶色くなっているものもあったが、いくつかは、傷もなく、きれいに見える。
「食えるのか?」
「ううん、あのままじゃ無理」
槍の先で梅の実を示しながら言ったスパルタ人に、みらのは答えた。
「梅の実にはあくがあるから、生では食べられないよ。梅干しにするとか、梅酒にするとかしなくちゃ」
「ぬうん」
無念そうに黙ったスパルタ人をよそに、みらのはわくわくしながら計画を練っていた。
(この木、農薬かかってるのかな? もし、かかってないなら、この実をもらって、梅仕事ができるかも!)
みらのは最近、梅仕事についての本を読んだところなのである。
清潔なガラスびんに詰められた美しい梅の実と氷砂糖の写真、また、ざるの上に並べられた土用干しの梅のふくよかな赤さは、みらのを魅了した。
(梅酒……は無理だよね、未成年だし。じゃあ、環境美化委員会の活動の一環で、有志で家庭科室で梅干しを作る……のも、無理か。下の花壇は私たちの管轄だけど、この木は、私たちが世話してるんじゃないし)
みらのはもちろん今年度も環境美化委員会に所属し、花壇の手入れに余念がなかった。
昨年度卒業した沖仲委員長や、転任した日高先生(世界史)なら、みらのの梅干し作り計画を後押ししてくれただろうが、今年度の委員長と担当の先生は、植物にそこまでの情熱をもっている人ではなかったため、協力はのぞめない。
というか、そもそも、環境美化と梅干しに何の関係もない。
(実をもらって帰って、家でやってみよう。誰にお願いしたらいいんだろ?)
落ちているものを拾って帰って、きれいに洗って使うという手もないことはないが、後から無断で盗ったように言われても嫌だし、ぽろぽろ落ちている数個ていどでは数が足りない。
やはり正々堂々と許可を得て、枝についている、きれいな実を収穫したいものである。
第一、農薬がかかっているかどうかをきちんと確認しないままで梅仕事に使うのは危険だ。
(剪定とかの世話をしてるのは……管理作業員さんかな。でも、この木は学校のものだから、とりあえず教頭先生? でも、いきなり教頭先生に『梅の実もらえますか』っていうのも急だし)
みらのは、自分が「真面目だが、ちょっと、いや相当かわった生徒」だと周囲から思われていることは自覚していた。
この上、梅の実の用件でいきなり職員室に突撃したりしたら「梅干し系女子」などというあだ名がつきかねない。
(莉子先輩とか、日高先生がいてくれたらいいのに……)
みらのがため息をついた、そのときだ。
「どうしたの?」
急に、背後から声をかけられた。
振り向くと、そこにいたのは、銀縁眼鏡をかけた背の高い女性だった。
家庭科担当の久喜先生だ。
「3組の小鳥遊さんよね。何見てるの?」
「ああ、ええと」
まさかと思うが、自分は、梅泥棒の嫌疑をかけられているのだろうか。
周囲をうろうろしていたスパルタ人が戻ってきて、みらののかたわらに立ち、先生に向かって槍を構える。
みらのは慌てて言った。
「あの実って、もらえるのかなと思って。今から、職員室に行こうかなって」
「ああ」
怪訝そうだった久喜先生の顔が、笑顔になった。
「あの桃の実?」
「え?」
急転直下、話がややこしくなってきた。
「桃? ですか?」
「そう、桃」
久喜先生は、やはり笑顔である。
みらのは、これまでずっと「梅の木」だと確信して見てきたその木を、あらためて見た。
やや丸みを帯びた葉の形、実の色合いやサイズ感。
やはり、どう見ても、梅にしか見えない。
「これって、梅じゃないんですか?」
「ううん、これ、桃よ」
「でも……梅に見えますけど」
「桃、桃。学校の裏に、百野って地名があるの知ってる?」
「いえ、知らないです」
「あの百野の『もも』は、もとは、この桃なんだって。このあたりは昔、桃が多かったから、それにちなんで、学校にも桃が植えてあるの」
「そうなんですか?」
返事をしながら、みらのは、また、その木を見た。
これまで毎年のように城址公園を訪れ、梅の花も、桃の花も見てきたみらのだ。
この木が花を咲かせているのを見て、自然に、梅だと思った。
今年、この木が花を咲かせていた時期も、梅の花の時期だった、と思う。
花びらは丸く、梅の花の形をしていた、と思う。
近くに寄って香りも楽しんだが、確かに、自分が知っている梅の花の香りだった、と思う。
だが、今、ここまで自信をもって「桃である」と断言されると、確信が揺らいできた。
花がない今の時期、葉と、実と、枝ぶりと樹皮の様子だけで、確実に梅だと言い切れるか。
葉は、梅の葉である、と思う。
では、桃の葉は、どんなものだったか。
確か、これよりも、もっと細長かったのではないか。
みらのは、今、手元にスマホがあればいいのにと切実に思った。
こういう、葉が丸みを帯びたタイプの桃もあるのか、ないのか、今すぐに調べたい。
だが、スマホは今、教室の、鍵付きのロッカーの中だ。
「この木って、先生が植えたんですか?」
「え? 違う違う、ずっと前から植わってるの」
「じゃあ、その、地名にちなんでるっていうのは、どうして分かるんですか?」
「だいぶ前に、誰かに聞いたのよねえ」
「誰ですか?」
その人に聞けば、はっきりしたことが分かるかもしれない。
「え、疑ってる?」
「うーん」
また、話がややこしくなってきた。
「疑ってるというか、私、ずっと、この木は梅だと思ってて」
「そうそう! そういう人、多いの。先生の中にも、間違えてる人がいて」
「そうなんですか」
「そうそう。帰りにでも、スマホで調べてみて。ほら、撮ったら、何々ですよって教えてくれるのがあるでしょ、最近」
「はい」
久喜先生が去った後も、みらのとスパルタ人はその場に残り、じっとその木を見つめていた。
そろそろ教室に戻らなくてはならないが、どうしても気になる。
これは、やはり、梅ではないのか?
みらのの視線は、土の上に転がっていた、ひとつの傷ついた実に向いた。
「おい」
実を拾い上げ、口もとに近づけたみらのに、スパルタ人が険しい顔で声をかける。
かじりつこうとしている、と思ったのだろう。
「違う、違う」
みらのは、丸い実についた茶色っぽい傷のあたりに鼻を近づけ、においをかいでみた。
よくわからない。
爪を立て、ぐっと力を入れて、実を二つに割った。
中に、黄色い種が入っている。
においをかいだ。
みらのは、目を見開いた。
紛れもなく、はっきりと、桃の香りがした。
帰り道、スマホでその木を撮影した。
AIは答えた。
『アンズ』
話が余計にややこしくなっている。
葉や幹、全体像を撮影した画像を、沖仲莉子に送った。
『これ、何の木か分かりますか?』
間髪入れずに既読がつき、返信が来た。
『梅だな』
帰宅しながら「梅 桃 見分け方」「梅 樹皮」「梅 葉」「桃 樹皮」「桃 葉」を画像検索した。
検索結果として出てきた画像の桃の葉は、あの木の葉よりも細長く、桃の樹皮は、もっとすべすべとして横縞のような模様が入っており、あの木のように、ひび割れてざらざらとした様子ではなかった。
帰宅してから、PCでさらに調べた。
熟した梅の実からは、桃のような香りがする、という情報を見つけた。
(やっぱり、梅なんじゃないの?)
眉を寄せるみらののとなりでは、スパルタ人が梅仕事の本を開き、目を輝かせて、真っ赤な梅干しの写真を見つめていた。
多分、よほど熟れて甘い実に違いない、と想像してしているらしい。
翌日は、どんよりとした曇り空だった。
昼休み、なんとなく気まずいので久喜先生がいないかどうかを外からうかがってから、みらのは職員室の扉をノックした。
「失礼します――」
職員室に一歩入った瞬間、みらのの足は止まり、その目は、そばの棚の上に置かれた段ボール箱に釘付けになった。
その箱には見慣れた黄色っぽい実や青い実がごろごろと入っており、こんな文言を記した紙が貼られていた。
ウメの実が
たくさんとれました
ほしい方どうぞ! 山岡
山岡は、生物担当の教師の名前だ。
「あ!」
みらのの叫び声に、職員室じゅうの視線が一斉に集まる。
「いや、あの! すみません、間違えました、失礼します!」
驚く教師たちをおいて、すごい速さで職員室を飛び出し、教室に戻った。
「彼らに、収穫を先んじられたか」
「ほんとだね……朝は、まだ枝についてたのに。先生たちも狙ってたんだね、梅。いい色になってたし」
「やはり、ウメだったな」
「うん。梅だったね、やっぱり」
かばんの中の梅仕事の本に活躍してもらうのは、来年になりそうだ。
いや、待て。
ひょっとすると、今の時期、スーパーに行けば、梅の実が売っているのではないか?
「久喜先生、あの貼紙見たら、びっくりするんじゃないかなあ」
「モモではない。ウメだ」
「うん」
「教師たちも狙うとは、よほど甘い果物に違いないな」
「うーん、いや……あ! じゃあ、梅シロップ作ろう! この本に載ってた!」
不意に、重く垂れこめていた雲から、ざあっとすごい勢いで雨粒が落ちてきた。
生徒たちがうおおとどよめきながら、換気のために開けていた窓を急いで閉めて回る。
だが、宙を見つめて心の中で梅シロップ作りの計画を練るみらのの目の前には、灰色ではなく、透きとおった琥珀色の景色が広がっていた。