その5 「梅」
小鳥遊みらのは動かない。
土曜日の午前10時10分。
ジャケット、手袋、ニットキャップの完全防備で、自宅から30分ほど自転車をこいでやってきた城址公園の、梅林の入口である。
入口のわきに立ちつくすみらのを追いこして、日課の散歩中らしきじいさんばあさんと、日課のウォーキング中らしいおばさん3人組と、でかいカメラを首からさげた年齢不詳の男性と、やたらにぎやかな若いカップルが梅林の中へと入っていった。
それでも、みらのは動かない。
動かないというより、この状況に、どうコメントしたものか迷っているのだった。
「ちょっとー! これ、やばくない!?」
みらのが黙っているあいだに、若いカップルの女性のほうが、げらげら笑いながら、でかい声で代弁してくれた。
「まだ、全っ然、咲いてないじゃん! 枯木ばっかじゃーん!? 枯木!」
「枯れては、いないけどな……」
彼氏のひかえめな反論に、彼女は「これ、逆にウケる!」と叫び、枯木、枯木と連呼しながら、あたりの風景をスマホで撮影しはじめた。
「委員長……」
「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花」
「主なしとて 春を忘るな 菅原道真……いや、そうじゃなくて」
となりで満足げにうなずいている沖仲莉子に、みらのは、思わず裏手でつっこみを入れた。
「委員長、『今ちょうど見頃らしい』って言ってませんでした? まだ全然、咲いてませんけど……東風どころか、北風が吹いちゃってますよ!」
「小鳥遊」
「はい?」
「また、委員長呼びが出ているぞ」
「あ、そうでした、先輩」
みらのたちが通う楓ヶ丘高校では、3年生は代々、2学期の終わりに役職を引退するのが慣例になっている。
そのまままったく活動しなくなる3年生が多いなか、莉子は、休み時間の花壇の世話を、今までと変わらず、毎日続けていた。
もはや委員会活動ではなく趣味、生活習慣、ルーティンの域に入っている。
それは、みらのも同じなので、昨日の休み時間にも、いつものようにふたりで花壇の花がら摘みをしていた。
そのときのことだ。
『そうだ、小鳥遊』
『はい』
『明日、もし暇だったら、梅見に行かないか? 城址公園に。今、ちょうど見頃らしいぞ』
みらのは、まず、驚いた。
莉子とはこの1年間、平日はほぼ毎日、一緒に学校の植物の世話をしてきた仲だが、学校の外で一緒に遊んだことはなく、そんな話が出たことすら一度もなかった。
しかも、今は、2月の頭だ。
莉子は3年生。
もうすぐ、大学入試本番なのである。
『え……いい、です、けど。いや、私は、ぜひ、行きたいですけど。委員ちょ……いや、先輩は、大丈夫なんですか? 塾とか』
『明日は昼から行く。大丈夫だ』
『あっ、はい。じゃあ、ぜひ! 行きたいです。私、自転車でいいですか?』
『何でも。じゃあ、明日の10時に、城址公園の追手門前でな』
『はい!』
思えば、あのとき、まだ梅の時期にはちょっと早いのではないか? という気は、一瞬したのである。
だが、ちょうど晴れて少し暖かい日が2日ほど続いていたこと。
「今ちょうど見頃らしい」という莉子の言葉。
そして何よりも、大学入試を控えた3年生の莉子が、あえてこの時期に「梅を見にいかないか」というのは、おそらくよほど受験ストレスがたまっていて、屋外で植物に触れることでどうしてもリフレッシュしたいのではないか……と慮ったことなどから「じゃあ、ぜひ!」ということになったのである。
(それなのに、まさか、まだ全部つぼみだなんて……)
城址公園は、この市内に住む者ならまず確実に小学校の遠足で訪れたことがあるであろう有名スポットであり、2月には梅、3月には桃、そして4月には桜が楽しめるという、植物好きとしても欠かせない花見スポットである。
もちろん、みらのも、ここの梅林には、幼い頃から何度も来たことがあり、満開の光景の見事さはよく知っていた。
紅白に桃色、めずらしいところでは淡いみどりと、さまざまな色に咲き誇る梅が周囲のぐるりを埋め尽くし、あの独特の甘く清々しい香りがただよう、すばらしい空間になるのだ。
それなのに、今はまさしくカップルの彼女が言っていたように、どこを見ても「枯木」同然の姿をした木ばかりである。
(あっ。もしかして委員長、間違えて、去年の開花情報の画像でも見たんじゃ……!? 去年は暖冬で、梅の咲きはじめが早かったし。こんなことなら、念のため、私もネットで開花情報を確認しとくんだった)
と、みらのが悔やんでいると、
「いや。今が、まさにちょうど見頃だ」
莉子はこともなげにそう言い、すたすたと梅林の中へ入っていった。
その後ろについていこうとして、みらのはあわてて立ち止まり、あたりを見回した。
どこへ行ったのかと思ったら、スパルタ人とローマ軍団兵は、ふたりして梅林のすぐそばにある空堀のふちの茂みにひそみ、深刻な面持ちで、なにやら話し合っていた。
どうやら、いかにして敵に気づかれずにこの空堀にかかった橋を越え、その奥の櫓門を突破して城に攻め入るかについて協議しているらしい。
二人とも、いつもより重武装で、気合が入っている。
(でも、いくら何でも、ふたりでは無理なんじゃ……? 橋の上は狭間から狙い撃ちされるし、門の向こうは枡形虎口になってるから、突っ込んだら十字砲火を浴びちゃうよ)
気にはなったが、莉子がどんどん先に進んでいくので、作戦会議中の戦士たちはとりあえずそのままに、小走りに莉子のあとを追う。
梅林の中には、いくつもの小径が通っていて、それらをたどっていくと、中央のちょっとした広場に行きつくようになっていた。
広場には小さな売店と、竹で組まれたベンチがあって、人々の憩いの場となっている。
その広場に近づくにつれて、
「あっ」
みらのは思わず声をあげた。
まだ全部つぼみ、では、なかった。
ほんのわずかな、だが、ぱっとあざやかに目をひく紅、白、桃の色彩が、あちらこちらから目に飛び込んでくる。
これほど寒くても、もう、咲いている木があったのだ。
中央の広場に向かうにつれて、その数は、少しずつ多くなっていった。
「全体として、1分……いや、0.5分咲きといったところか。まさに、今が見頃だ」
一輪の白梅に鼻を近づけて、胸いっぱいに香りを吸い込んでから、おもむろにスマホを取りだして花を撮影し、莉子。
「満開の頃には、花よりも、人のほうが多くなって、ゆっくり花見なんかできたものじゃないからな。梅の花の香り、色、形をじっくり鑑賞して、春の訪れを感じるには、咲きはじめの今頃が一番だ。ほら、和食にだって『はしり』というのがあるだろう?」
「ああ……」
みらのも、そばに咲いていた一輪の紅梅に鼻を近づけてみた。
息を吸うと、早春の冷たい空気とともに、あの懐かしい、他のどんな花とも違う、凛として甘い梅の花の香りがからだいっぱいに入ってきた。
ふたりは熱心にあたりを歩き回り、咲いている花に鼻を近づけては、その香りを楽しんだ。
やわらかな花びらと、こまやかなおしべが鼻先をくすぐり、みらのはあわてて横を向いて、小さくくしゃみをした。
「少し冷えたな。そこの茶屋で一服していこう」
「先輩、せりふが完全に時代劇です」
みらのと莉子は、売店であたたかい甘酒を注文した。
日のあたる竹のベンチに座るとき、莉子がおろしたリュックサックは、ずっしりと重そうだった。昼から行くと言っていた塾のテキストやノートがつまっているのだろう。
甘酒をふうふう吹いて飲みながら、みらのと莉子は、家で育てている植物の話をした。
「そういえば最近、うちのヘレボロス・ニゲルが咲いた」
「あ、先輩、クリスマスローズが好きなんですか」
「いや、家にはあるが、育ててるのは母だな。私は、あれがなんとなく苦手なんだ」
「苦手?」
「というか、なぜか、ちょっと、こう、不気味な感じがしてな。好きな人も多いが」
「わかります。あれ、ちょっと怖い感じがしますよね」
「この感覚が他の人間に通じたのが初めてなんだが」
「昔、第1次神聖戦争のとき、アテナイのソロンが敵の町を陥落させるために、川の水にこの植物の毒を流したらしいです。パウサニアス情報ですけど」
「毒だったのか……というかソロンって、あのソロンか。ソロンの改革の」
「はい。でも、ソロンが使ったっていうヘレボロスが、今のヘレボロスと同じヘレボロスかどうかは、ちょっと分かりませんけど」
「真面目な男かと思ったら、意外とやばいな、ソロン」
「はい。先輩も気をつけてください」
「何にだ」
「川の水にヘレボロスの毒が」
「飲まん、飲まん」
重なった梅の枝のむこうに、わずかに見える橋の上で、雨のように降る矢に対して盾をおしたて、体をちぢめながらじりじりと前進していくスパルタ人とローマ軍団兵の姿が見えた。
スパルタ人が大声で敵をあざ笑い、降りそそぐ矢をものともせずに何か叫んだ。
たぶん、彼らが尊敬するレオニダス王の言葉、「日陰で敵と戦えるのならばすばらしいことだ」だろう。
「そうだ、先輩。3月になったら、今度は、桃を見に来ませんか? あっちのほうに桃園、あるじゃないですか」
「となると、あとひとり、呼んでくるか……」
「もしかして『桃園の誓い』をやろうとしてます?」
「あと孔明もいるな」
「三国鼎立しようとしてます?」
「春からは、こんな会話ができないと思うと残念だ」
「できますよ。連絡ください。いい植物があったときとかに」
「なるほど」
「4月になったら、桜のお花見もしなくちゃいけませんし」
「うん」
「応援してます」
「うん」
枡形虎口からどっと繰り出してきた守備兵たちを相手に、スパルタ人とローマ軍団兵が奮戦している。
その激しい物音を遠くききながら、みらのと莉子は甘酒をすすり、早春の陽射しのなかに座っていた。