その4 「ウツボカズラ」
小鳥遊みらのは動かない。
いや、正確に言えば、その場を移動こそしていないが、微妙に上下動はしていた。
両方のかかとを、とんとんと上げ下げしている。
寒いのだ。
土曜日の朝8時半、彼女の家の庭の片隅――
洗濯物が北風にひるがえる、物干し竿の下である。
みらのは、黒いもこもこ裏起毛スウェットの上下を着こみ、赤いウールのショールを羽織っていた。
だが、足元は、夏と同じ素足にサンダルのままだった。
みらのは、家のなかでは裸足派なのだ。
いちいち靴下をはくのが面倒で、植物たちのようすを見るのにそのままサンダルをつっかけて出るものだから、足元が寒いのである。
そんなみらのの背後、庭のフェンスの外を、スパルタ人が足音もなく駆け抜けていった。
彼は12月になっても、素肌にいつもの赤い衣一枚で過ごしていた。
サンダルどころか、外でも裸足だ。
だから、走っていないと寒いのである。
12月になり、気温がぐっと下がった。
みらのの住む地方では、雪の気配はないものの、各地からはスキー場オープンの便りが続々と聞こえてくる。
このあたりでさえも、朝晩の冷え込みはだいぶ厳しくなってきた。
その冷え込みが、大問題なのである。
(さすがに、もう限界だよね? 本当なら、もっとはやく家のなかに取り込んであげるべきだったと思うけど……)
タオルやシャツにまじって、物干し竿の端っこにぶら下がっているのは、吊り下げ鉢に植わった食虫植物、ウツボカズラだった。
平たくつややかな葉を四方に広げ、その葉の先端から、先のとがった茎のようなものを下向きにニュッと出している。
その、茎のようなものの先端に、ウツボカズラ特有の「壺」がひとつずつぶら下がっていた。
夏に、行きつけの花屋で食虫植物フェアをやっているのを見かけて、つい陣営に加えてしまった一鉢だ。
そのときに店頭で見た注意書きにいわく、
① 水は切らさず
② 光は好き、直射日光は避けて
(あ、②は「玉露」といっしょだ)
と、そのとき、みらのは思ったものである。
「玉露」というのは、みらのが育てている多肉植物ハオルチアの一種の呼名だ。
光は好きだが直射日光はだめ、とは一体どういうことなのかと思うが、つまるところ、光合成のためにほどよい光量は必要だが、強烈な日光を浴び続けると、葉がやけどのような状態になって弱ってしまうということらしい。
まさにΜΗΔΕΝΑΓΑΝ、古代ギリシャの神託所、デルフォイに掲げられていたという“度を過ごすなかれ”の言葉の通りだ。
みらのは、店から連れ帰ったウツボカズラを、さっそくハオルチア「玉露」のとなり――午前中にすりガラス越しの日光があたる、玄関の靴箱の上に置いた。
それからは、日々、様子を見守りながら、水を切らさないように気をつけ、世話を続けた。
両者とも、しばらくは順調かに見えたのだが、ひと月ほどたって、問題が起こった。
ハオルチア「玉露」の葉が、にゅーっと妙に長く伸びて、全体の形が崩れ始めたのだ。
心なしか、色もすこし褪せたように見える。
ウツボカズラのほうも、店で買ったときは葉と葉の間隔がぎゅっと詰まっていたのに、みらのの家に来てから成長した部分は、ひゅーっと間延びした感じになった。
(これ、もしかして「徒長」しているんじゃ……?)
午前中に、すりガラスごしの光が当たるだけでは、光量が足りなかったということか。
『室内での栽培など、軟弱になると言っただろうが』
『うん……これは確かに、そっちが正しかったかも』
スパルタ人に呆れられながら、みらのはあわてて「玉露」とウツボカズラを外に運び出した。
だが、直射日光が当たらず、しかも明るい場所とは……?
そうだ、家族の自転車置き場の奥はどうだろう?
あそこなら一日中、ちょうどいい木洩れ日があたっている。
いや、でも、だめだ。並んだ自転車がじゃまになって、毎日の水やりがしにくい。
思い切って、家のおもてにずらりと並べてある鉢の列に加えるか?
あそこなら、他の鉢と一緒に水やりができるし、じゅうぶんな日照も確保できる。
いや、でも、いきなり遮るもののない直射日光を浴びることになって、大丈夫なのだろうか。
それに、ウツボカズラの存在感ある姿は、お子さまたちにも大人気だ。通りすがりの子供たちが見つけたら、思わず触りまくって、葉や壺をいためてしまうかもしれない。
あまり考えたくはないが、心無い通行人が、めずらしがって持っていってしまうという可能性も――
『だめだぁ……どうしよう。もう、完全室内仕様で、植物育成用のライトを買う……?』
『それは何だ?』
『まあ、小さい太陽みたいなものかな』
『死すべき人間が、天に輝く太陽に飽き足らず、地にも太陽を生み出そうなどとッ……神々の怒りをかうに違いない不遜の行いだッ』
『それ、前に、家の照明にも言ってたよね』
植物育成用ライトは最終手段として、もう少し、いい場所を探してみることにした。
右手に「玉露」、左手にウツボカズラの鉢を持って、庭じゅうをうろうろと歩き回ることしばし――
(あ!)
みらのは、はっと思いあたって、庭の片隅の物干し場へ行った。
(ここ、ベストポジションなんじゃない!?)
タオルやTシャツが干された物干し竿の端っこに、ウツボカズラの鉢をぶら下げる。
ちょうど都合がいいことに、ウツボカズラの鉢は、ぶら下げ用のかぎがついたハンギングプランタータイプだったのだ。
物干し場の上には、洗濯物に雨が当たらないよう、半透明のサンルーフが設置されていた。
これならちょうど「直射日光ではない、明るい光」も確保できるし、水場も近く、さらには風通しもいい。
完璧だ。
ハオルチア「玉露」も、すぐそばの、洗剤や肥料などをまとめて置いてあるラックの上に据えることにした。
新しいすみかを得た「玉露」とウツボカズラは、葉焼けを起こすこともなく、すくすくと成長していった。
ウツボカズラに至っては、新しい葉をどんどんと開き、その先端に新しい「壺」を作り出してはぶら下げた。
ウツボカズラを近くでしげしげと見たことがない人は、その「壺」がどういうふうにぶら下がっているのか、正確な様子はイメージしにくいであろう。
葉の先端から下向きに伸びた茎のようなものは、ウツボカズラの「壺」の上部――ではなく、「底」にあたる部分とつながっている。
そのままでは「壺」は下向きのベルのような状態になってしまうから、そこからグイッと重力に逆らって、強引に上向きになっているのである。
常に「逆さ吊り腹筋」をしているような状態なのだ。
『ふん……』
と、その様子を横目で見ていたスパルタ人は、おもむろに地面に横になり、腹筋をしはじめた。何やら、対抗意識が芽生えたらしかった。
そうして夏、秋を順調にすごし、ついに迎えた冬――
(さすがに、もう限界だよ。ていうか、ウツボカズラの愛好家の人が聞いたら倒れちゃうレベルの気温じゃない? これ)
取り込まなくては、取り込まなくては、と心の片隅で思いつつも、室内でまた徒長したらどうしよう、という心配があったのと、ウツボカズラ本人がいっこうにしおれる様子もなく元気そうだったことから、つい先延ばしにしてしまっていた。
例によって検索したところ、ウツボカズラの多くは寒さに弱く、15度を下回るとよくないらしい。
冬場は、簡易温室で加温、少なくとも室内置きはマストだそうだ。
愛好家たちは「衣装箱のプラケースを育成ケースに仕立てる」「熱帯魚用の水槽とサーモスタットを活用」などなど、様々な工夫をこらして冬越しをさせているらしい。
(さすがに、うちの中でいきなりそこまでしたらびっくりされちゃうから、難しいけど……とにかく、なかに取り込んで、なるべく暖かい場所に……)
ウツボカズラの鉢を取り込もうとしていると、背後に気配がした。
振り向くと、スパルタ人が厳しいまなざしでみらのを見つめている。
「室内に入れるつもりか」
「うん」
「軟弱な男に育ったらどうするのだッ」
「男なの? いや、ウツボカズラは、15度を下回ったらだめなんだって。もう下回ってるけど。さすがに、もう中に入れてあげないと、このままじゃ枯れちゃうよ」
「それで枯れるようなら、それまでのこと……」
「いや、これ、スパルタ人じゃなくてウツボカズラだから。赤子にワインの産湯をつかわせるみたいなこと言ってないで、ちゃんとあったかいところへ――」
「何を言う! 冬だろうが嵐だろうがヒマティオン一枚で過ごすこともできぬようでは、立派な――」
そこまで言ったとき、ひゅうーっとひときわ冷たい風が吹き抜け、スパルタ人の赤い衣を激しくはためかせた。
彼は激しくくしゃみをし、何やらまじないの文句(?)を唱えると、また走っていってしまった。
足を止めていたせいで、体が冷えたらしい。
「やっぱり寒かったんだ……」
みらのは、鉢の下に敷く受皿とともに、ウツボカズラの鉢を二階の自分の部屋に持っていった。
棚の上のぬいぐるみや置物を脇へよせ、ウツボカズラを据える。
スパルタ人にならって――というわけではなく、喉が乾燥するのが苦手で、冬も暖房をつけない派のみらのの部屋は寒いのだが、吹きっさらしの外にぶら下がっているよりは、はるかにましだろう。
それに、ウツボカズラは、乾燥にも弱いという。ならば、暖房の風が当たらないのは、かえっていいかもしれない。
(今度、ホームセンターで、ちょうどいい植物育成用ライトが置いてないか見てみようっと)
スパルタ人には内緒で、すでにネットで様々な製品の値段と口コミを比較している。
みらのが居間に降りてくると、スパルタ人も戻ってきていて、じっと部屋の一点をにらみつけていた。
こたつだ。
「そんな遠慮しないで、入ったらいいのに、おこた」
「クッ……そのような堕落……スパルタの戦士は……」
「いや、これ、家のなかの炉と同じだから。私たちは、家のなかで火をたけないから、かわりにこんな感じにしてるだけだから。スパルタの家にもあるでしょ、炉」
「ヌウッ、そういうことなら」
スパルタ人はすごい速さでこたつに滑り込み、直後、ほっこりとした顔になった。
「やっぱり寒かったんだ……」
「寒くなどないッ」
「みかん食べる?」
「ヌウッ、面妖な果実ッ」
「これ、みかん。温州みかん」
スパルタ人はあやしそうに温州みかんを剥いて口に含み、直後、ほっこりとした顔になった。
みらのの家の冬は、こんな感じで深まってゆくことになりそうだ。