その3 「ビオラ」
小鳥遊みらのは動かない。
月曜の朝8時、楓ヶ丘高校の南側――
つまり、みらのたちが通う高校の正門前である。
立ちつくす彼女の後ろを、登校する生徒たちがぞろぞろと通りすぎてゆく。
大量のふせんをはりつけた熟語帳を手に、ぶつぶつ言いながら歩く女子。
左足にギプスをつけ、松葉杖をつきながらもリズミカルに進む男子。
友達どうしでにぎやかにしゃべりながら歩く者、一人で真顔のまま進む者。
ぱっちり目をあけている者に、半分寝ているような顔の者。
ジャージ姿の運動部の生徒たちが、道路の向かいにあるグラウンドから、朝練の用具を運んでくる。
あと20分で始業時刻だ。
「あ、小鳥遊さん、おはよっ」
「はよーん」
「ウィース!」
クラスメイトたちからのあいさつに、
「あ、おはよう……」
と答えながらも、みらのは、その場を動かなかった。
重いリュックをかついだまま、呆然と立っているところへ、
「また、やられたか」
重々しい声がした。
「委員長!」
「ゆゆしき事態だな」
小柄でベリーショート、いかつい黒ぶち眼鏡をかけた、3年A組沖仲莉子――みらのが所属する環境美化委員会の委員長は、長身をそらし、腕組みをしてうなった。
彼女の背後では、銀色に輝く板札鎧を着て兜をかぶり、剣をさげたローマ軍団兵が、彼女とまったく同じ顔、同じ姿勢でうなっている。
みらののとなりに盾と槍を手にして立ったスパルタ人は、じろりとそちらを見たが、すぐに視線を戻して、相手に興味のないふうを示した。
「これで二度目。しかも、同じ場所だ。金曜に、新しい苗に植え替えたばかりなのに」
「本当ですね……」
みらのと莉子、スパルタ人とローマ軍団兵が見下ろしているのは、正門横の花壇だった。
腰ほどの高さのある石造りの花壇に、季節の花々が植えられている。
今の顔触れは、色とりどりのビオラだ。
中心がはちみつ色に茶色のぶち模様、外側は黄色に淡くむらさきをぼかしたようなニュアンスカラーの花弁をもつもの。
全体に濃いむらさき色だが、花の中央少し下の部分にだけ黄色が入っているもの。
5枚の花弁のうち、上の2枚が薄むらさきで、下の3枚がレモンイエローのもの。
花全体が明るい黄色のもの。
「いったい誰が、こんなことするんでしょう」
眉をぎゅっと寄せてみらのが見下ろした花壇のふち近く、ちょうど濃いむらさき色のビオラが植えられているあたりが、何者かに踏みつけられたようになっていた。
いや、踏みつけられたにしては広い範囲が、均一につぶされている。
誰かが、上から荷物でも置いたような感じだ。
押しつぶされたビオラは、茎がいたんだためか、葉もしおれて全体がしなび、もはやとても助かりそうになかった。
一度目と、まったく同じ状態である。
莉子は、ふだんからやや険しい表情を、ますます険しくして、
「金曜に私が帰るときには、何事もなかった。やられたのは、間違いなくこの土日だ」
と言った。
「はい、私も、金曜に下校するとき、無事なのを見ました」
「そうだろう。やっぱり土日だ。生徒のだれかの悪質ないたずらかと思ったが、こうなると、外部の人間のしわざという可能性も高いな」
「ここは門の外ですから、通行人の誰でも、やろうと思えばできますもんね……でも、どうして、こんなことを」
「むう。とにかく、今は時間がない。いったん教室に入ろう。あとで、私から日高先生に相談しておく。必要とあらば警察に連絡していただくことも考えよう」
「はい」
みらのと莉子委員長は、足早にそれぞれの教室に向かった。
みらのがちらりと振り向くと、スパルタ人とローマ軍団兵は正門のところにたたずんだまま、じっとにらみ合っていた。
これから、グラウンドで手合わせをするのかもしれない。
* * *
教室に入ってからも、みらのは、ずっと正門横花壇のことを考え続けていた。
(いったい、誰があんなことを)
あの花壇の花々は、みらのたち環境美化委員会が植え付けたものだ。
特に、園芸好きの莉子が委員長になった今年度からは、先生からカタログを借りて、植え付ける苗の選定も、自分たちで行ってきた。
『あの、先輩も、花が好きなんですか?』
『めちゃくちゃ好きだ。小鳥遊も、こういうの好きなのか?』
そこから意気投合したみらのと莉子は、今では毎日、誰に頼まれもしないのに、いっしょに放課後に正門横花壇の花がら摘みをしたり、たくさん咲いた花は切り花にして下足室に飾ったりする仲だ。
つまり、みらのにとって、正門横花壇は、莉子と共に作り上げてきた、大切な場所なのだ。
それなのに。
(あんなふうに平気で植物を傷つけるなんて、信じられない)
みらのの感覚では、園芸植物をわざと傷つける行為は、動物や人間に対してそうするのと同じくらい、とんでもないことだった。
園芸植物は、石が路傍に落ちているように、単にそこにあるのではない。
誰かが、愛情をもって世話をし、丹精こめて育てているものなのだ。
(それなのに、二度もあんなことを……こんなふうに、しつこく同じことを繰り返すなんて、悪質すぎる。もしかして、この学校に恨みを持つ何者かが――? いや、まさか……)
* * *
莉子は、2時間目が終わってすぐに、みらのの教室までやってきた。
ローマ軍団兵は来なかった。
スパルタ人も姿を見せないから、二人は、まだ戦っているらしい。
「日高先生に報告した。また、植え直しだ」
「警察へは?」
「結論から言うと、まだそういう段階ではない、という判断だった。だが、私は、納得がいかん!」
まわりの生徒たちがぎょっとするほどの大声をあげた莉子は、周囲からの視線に気付いて、小さく咳ばらいをすると、声をひそめた。
「二度も花壇を荒らされて、黙って引っ込んでいたとあっては、環境美化委員会の名折れだ。二度あることは三度ある、という。こっちが動かなければ、向こうは、調子にのって、さらに手出しをしてくるかもしれん。小鳥遊、協力してくれ」
「えっ。もしかして」
「そうだ。私たちで、ホシを挙げる!」
* * *
昼休み。
「たしかに、ここからだと、花壇がよく見えますね」
「そうだろう。そして、こっちの姿は、よほど注意していなければ、向こうからは見えない」
みらのと莉子の姿は、正門を入って右側、東館の非常階段の入口にあった。
すぐとなりは教職員用の自転車置き場になっているスペースで、昼休みにはまったく人通りがない。
ここからならば、正門の柵をななめにすかすようにして、花壇のようすをうかがうことができる。
「でも、こんなところに隠れてお昼を食べてるところを誰かに見られたら、逆に、私たちが疑われちゃうんじゃないでしょうか?」
「大丈夫だ。万が一にそなえ、一応、日高先生にはこのことを報告してある」
「よく、止められませんでしたね」
「『心配だから、昼休みにそれとなく花壇のようすを見にいく』と言っておいた。先生も、まさかここで張込みをしてるとまでは思ってないだろうが、万が一、誰かに見られて騒ぎになっても、事前に申告していたという事実があれば大丈夫だ」
「さすが委員長です。……あの、ところで、そのパンって」
「もちろん、あんパンだ。張込みにはあんパンというのが、昭和の刑事ものの決まりだからな」
「昭和の刑事もの」
みらのと莉子が昼休みに的を絞った理由は、今からちょうど5日前、一度目の犯行が起きたときの時間帯にあった。
その日、みらののクラスは、4限目にグラウンドでの体育があり、道路をわたって移動するときに、みらのはいつもの習慣で、さりげなく花壇のようすをチェックしていた。
そのときには何事もなかったものが、6限目、莉子が同じく体育のためにグラウンドに移動中、花壇が荒らされているのを発見したのである。
これにより、犯行時刻の候補は、わずか1時間半ほどのあいだに絞られた。
もし、二度目も同一犯であるとすれば、そいつは、また同じような時刻に行動を起こす可能性がある。
みらのは、やきそばパンをほおばりながら、油断なく花壇のほうに目をやり続けた。
スパルタ人もまた、ローマ軍団兵との戦いでどことなくぼろぼろになった戦装束をまとい、自転車のかげにじっと身をひそめている。
肩の上に、逆手に槍を持ち、花壇に近づく者があれば即座に槍を投げつける構えだ。
一方、ローマ軍団兵は、みらのたちとは正門をはさんで反対側にあるつつじの植込みの中に壕を掘ってひそんでいた。
あんな、人ひとり入れるほどの大穴を、いつのまに掘ったのだろう。
ローマ軍団兵の穴に気をとられていた、まさに一瞬のあいだに、
「お……」
莉子がかすかに喉を鳴らして、みらのの腕を叩いた。
犯人が、姿を現したのだ。
全身黒ずくめのそいつは、みらのと莉子、スパルタ人とローマ軍団兵が自分を見ているとも知らず、道路の向こう側から、ゆっくりとした足取りで花壇に近づいてきた。
花壇の手前で、ほんの一瞬立ち止まると、一挙動で軽々と花壇のふちに飛び乗り、まだしおれたビオラが植わったままの場所にどすんと寝転がって、丸くなった。
「ネコチャン……!!」
「ねこさん……」
「猫……」
莉子とみらのとローマ軍団兵が同時につぶやき、スパルタ人だけは、槍をかまえたまま、怪訝そうな顔をしていた。
スパルタには、イエネコはいないのだ。
* * *
翌日、
「まー、気の毒っちゃ気の毒だが、毎回毎回、植物の植替えの起案書書くのも、だいぶ面倒くさいんでなー。悪く思うなよー」
と言いながら、環境美化委員会担当の日高先生(世界史)が、花壇に一味トウガラシをまいた。
「それ……ビオラに悪影響があるのでは……?」
「や、だいじょぶだいじょぶー。うちの花壇も一時期、野良猫に荒らされちゃってなー。まー、奥さんが怒って、怒って。で、これをまいたら、効き目あったね。別に、花も枯れなかったし」
あやしむ莉子に軽く答えながら、景気よく一味トウガラシをまく日高先生。
「敵の侵入を防ぐため、畑の石壁をもっと高くするというのはどうだ」
「いや、それじゃ、花が見えなくなるから」
ローマ兵の提案に、思わずつっこむみらの。
「今度、奴があらわれたら、この槍で思い知らせてくれる……!」
「いや、そういうことにならないためのトウガラシだから!」
スパルタ人の呟きにも、思わずつっこんだところで、
「あっ」
と、みらのは思いついた。
「あの、今度、観賞用のトウガラシをここに植えませんか? 季節的に、まだ、ぎりぎりいけると思います。“メデューサ”なんか、いいんじゃないでしょうか。色も秋っぽいですし、冬に向けて、クリスマスカラーっぽくもなりますし」
「メドゥーサだと! 恐ろしい……」
「なるほどー、トウガラシの粉をまくより、もともと植えるってことかー。小鳥遊、頭いいなー」
「よし! 今度、カタログで調べておこう」
「予算の問題もあるからな。高いやつはだめだぞー」
「トウガラシとは何だ?」
その日以来、黒猫は姿を現さなくなった。
お互いのために、幸いだったというべきであろう。