その2 「ムラサキシキブ」
小鳥遊みらのは動かない。
日曜日の朝9時、郊外の庭付き一戸建て――彼女の家の前である。
下は中学のジャージ、上は古いロンT、その上からグリーンのもこもこカーディガンをはおるという完全無欠の休日スタイルで、みらのは塀の前にしゃがみこんでいた。
そんなみらのの背後を、宅配業者のバイクが通りすぎ、電動自転車に乗ったおばさんが通りすぎ、手押し車をおしながら、おどろくほどのスローさで、近所のばあさんが黙々と通りすぎていった。
それでも、みらのは動かない。
ひとつくくりにして背中にたらした長い黒髪の先端が、もうすこしで道路のアスファルトに触れそうになっているのにもかまわず、自分の両ひざに両手をのせて、じっと目の前を見つめている。
不意に、うしろでガチャリと音がして、
「おはようございまーす!」
と元気な声がした。
みらのがふりむくと、向かいの家の扉がひらき、住人のひとりである5才くらいの男の子がひょっこりと顔を出していた。
みらのは、にっこり笑って、
「おはようございます」
と答えた。
「おはようございまーす! おねえちゃん、なにしてるのーっ?」
「植物を見てるの」
「しょくぶつを、みてるの?」
男の子は、ふしぎそうにくりかえした。
彼はそのまま、5秒ほど固まっていたかと思うと、なんの脈絡もなく、ハト時計のハトのように、ヒュッと中へ引っこんだ。パタンと扉が閉まった。
みらのは、何事もなかったかのように姿勢をもどし、目の前にあるものをじっと見下ろした。
おそらく彼女が生まれる前からある、名前不明のサボテンの鉢。子株がどんどんついて、鉢から転げ落ちそうになっている。
黄色い花を咲かせるハイビスカス。その南国イメージに反して真夏にはうんともすんとも言わなくなったが、最近また一輪だけ開花した。
長い枝をひゅんひゅん伸ばしたミヤギノハギと、マルバノハギ。ちょっと前までは赤紫の花をびっしりとつけていたが、今はすっかり葉だけになっている。
古株のローズマリー。細い葉には強い香りがあり、ときどき、薄紫色の花をぽつぽつと咲かせる。
最近、花屋で見かけて買ってしまったムラサキシキブ。黒味がかった葉をしげらせ、黄緑色の実をびっしりつけている。
もとが赤く、まわりがピンク色の大輪の花を咲かせるフヨウ。最近、丸っこい実が熟し、細かい毛におおわれた種を収穫することができた。
ユーカリ。乾燥地に生えているイメージに反して水が好きで、水やりをおこたるとすぐに若葉がちりちりになる。
ベゴニア。すさまじい猛暑をものともせず夏じゅう咲き続け、今もまだ咲いている。
マンリョウ。冬に赤い実がつくはずだが、そもそも全然開花せず、毎年、ただつやつやとした葉を茂らせている。
細かい毛におおわれて白っぽく見える葉をもつハーブ、イモーテル。独特のにおいがあり、カレープラントとも呼ばれるが、みらのは「漢方薬っぽい」と思っている。
赤い実をつけるナンテン。親株が庭にあり、その株がつけた実から発芽して、いまや、みらのよりも背が高くなっている。
ヤマブキ。これも親株は庭にあり、その枝を切って花瓶に活けていたら、根が出たので鉢に植えた。
香り高いハーブ、タイム。虫に食われやすく、何度かはげちょろけになったが、スプレー式の薬剤の力を借りてどうにか生き延び、今はわっさりと茂っている。
オリーブ。「この品種は樹形が暴れやすい」と説明書に書かれていたとおり、わけのわからない枝の伸び方をするので、ときどき剪定が必要。
そして、昔、父親からもらったハオルチオプシス「十二の巻」……
そう、ずらりと塀にそって並んでいるのは、みらのが育てている植物たちの鉢だ。
みらのは、その植物たちのことを心配していた。
(夏は、この時間になれば、塀のきわはぜんぶ日向だった。それなのに、こっちがわは、今は完全に日陰……いや、このままだと、一日じゅう日陰になっちゃう。太陽の高度が下がってきたせいだ)
昨日、半月ほどのあいだ一滴も降らなかった雨が、とつぜん天の水がめの中身をぶちまけたかのように降りまくった。
その大雨があがったと思ったら、10月になってもまだ夏のようだったそれまでの気温が嘘のように、もはや半袖では過ごすことが難しい肌寒さになっていた。
大雨が洗い清めた大気をわたり、秋の女神、龍田姫がとうとうお出ましになったのだ。
(季節が進むのは喜ばしいことだけど、日当たりの問題を何とかしなくちゃ)
気温が一気に下がったうえに、一日じゅう、日が当たらないとなると、太陽を好む植物たちは、元気を失って枯れてしまうかもしれない。
最近、みらのの家の周辺には、新しい家がいくつか建った。
中には3階建ての家もあり、そのために、こちらが日陰になってしまう面積が、去年よりも増えたのだ。
太陽の南中高度が高かった夏までは、何の問題もなかったのだが――
(こうなったら、戦列の一大転換を実行するしかない)
総司令官みたいな決心をして、みらのはグリーンのもこもこカーディガンを脱ぎ、ガレージのフェンスにかけた。
(ここより左側は、一日じゅう日陰になるけど、右のほうには、午後になれば日が当たる。よし、光が必要な植物たちは、右側によせて、光があまりいらないものは、左側に集めよう!)
みらのは、まず、ミヤギノハギが植わっている13Lサイズのプランターの前に立った。
地面から何本も伸びたしなやかな枝をかき分け、上から覆いかぶさるようにして、プランターの左右のふちをつかむ。
腰をいためないように気をつけながら、ふーんっ! と一気にプランターを持ち上げ、日陰ゾーンに運んでいった。
ハギの花の時期はすでに終わり、冬には地上部が枯れて春まで根だけになるので、もはや、そこまでの日当たりはいらないだろう。
もちろん、日陰ゾーンには先住の鉢たちがぎっしりと置いてあって、新たにプランターを置くスペースはない。
持ってきたミヤギノハギのプランターは、いったん道路に置いておく。
車が来たら、すぐにどけなければならない。作業にはスピードが必要だ。
急いで、次のマルバノハギの運搬にかかるみらのを、
「シイッ」
と片手で制する身振りをして、槍を握ったスパルタ人が、じりじりと進みでていった。
スパルタ人の鋭い視線の先には、首を前後に揺らしながら日向の道を歩く、一羽のハトの姿があった。
よく休日の朝に、でーでーぽー、でーでーぽー、と鳴いているやつだ。
「フン!」
うなりをあげて槍が飛んだが、ハトは予想外の反射神経で猛ダッシュし、穂先をぎりぎりでかわして角をまがり、走り去った。
「フン」
残念そうに鼻息をふいて槍を回収にいくスパルタ人を、みらのは黙って見送った。
今のはたぶん、ハトのすぐ後ろにとめられていたご近所さんの車に遠慮したせいで、槍を投げる手がにぶったのだろう。
だが、下手にフォローすると、かえって彼のプライドを傷つけそうなので、あえて声はかけない。
「おはようございまーす! おにいちゃん、なにしてるのーっ?」
「狩りだ」
「かり? ぼく、かに、すきだよ」
「蟹ではない」
ハトを追って角をまがっていったスパルタ人を見送り、みらのは、黙々と作業を続ける。
ハギたちを日陰ゾーンに回し、あいた日向ゾーンに、サントリナとイモーテル、ハイビスカス、松、セージ、ムラサキシキブ、マンデビラの鉢をつめこもうとした。
だが、どうしても、スペースが足りない。
しかたなく、全部の鉢を、端からちょっとずつスライドさせて詰める。
それでもまだ、微妙にスペースが足りない。
みらのはしばらく考えた末、一部の小さい鉢は、大きい鉢の前にならべ、二段構えの集合写真みたいにすることにした。
あれこれとパズルのごとく組合せをためした末に、どうにか公道にはみ出すことなく、すべての鉢を塀のきわのスペースに収めることができた。
「ふう」
作業を終えたみらのは、ぐっと腰をのばし、すっかり満足しながら、新しい戦列を眺めた。
これできっと、すべての植物たちが、秋から冬にかけてを無事に過ごすことができるだろう。
みらのが、ふたたびグリーンのカーディガンに袖をとおしたとき、
「フンッ! ……フンッ!」
と、遠くから、かすかに気合の声が聞こえてきた。
声の主は、考えなくてもわかる。
なにごとかと歩いていくと、誰もいない道路を、スパルタ人が槍を手に走っていた。
彼は、オリンピックの槍投げの選手そのものの動きで大きく体をしならせると、全身の力をこめて槍を天に投げあげた。
電線をかすめて放物線を描き、落ちていく槍のはるか彼方――
澄んだ青空をゆったりと横ぎってゆく、赤、黄、橙の錦をまとった天女たちの行列が見えた。
その中央で、ひときわあでやかな衣をまとった堂々たる天女が、きらめくすそを引きながら、鈴のような声で笑っているのが聞こえた。
「ちょっと!? あれは絶対だめ! 獲物じゃないから! 龍田姫さまたちの行列だから!」
「おのれ、面妖な……」
「面妖じゃないから。龍田姫さまたちだから!」
「俺の腕では、あそこまでは届かぬ」
「届かなくていいから!」
スパルタ人の背中をぐいぐい押しながら、家の前までもどったところで、
「あっ」
みらのは声をあげ、塀の前にしゃがみこんだ。
苦労して戦列の大転換を終えたばかりの、日向ゾーン。
先ほどまではどれも黄緑色だったはずのムラサキシキブの実が、日の光を受け、一粒だけ、おどろくほど深い紫色に染まっていた。
彼女の庭にも、秋が訪れたのだった。