その1 「玉露」
小鳥遊みらのは動かない。
地域住民の憩いの場である緑地公園。
その一角にいくつもはられた、運動会みたいなテントの下である。
真剣なおももちでたたずむ彼女の背後を、でかいヘルメットをかぶった少年がおそらく人生初の自転車に乗ってよろよろと通りすぎてゆく。
その少年の後ろ姿をスマホで連写しながら、母親らしき女性が歓声をあげて通りすぎ、アイスクリームの入ったカップを片手に少女が通りすぎ、夫婦で散歩ちゅうのじいさんばあさんが通りすぎてゆく。
それでも、みらのは動かない。
風が吹いて、彼女のきっちり切りそろえられた前髪を揺らし、背中におろしたロングの黒髪をなびかせたが、本人は微動だにしなかった。
いっしょに緑地公園までやってきた古代スパルタ人が、音もなくみらのの隣に立ち、じっと見下ろしてくる。
みらのは、彼の顔をちらっと見て、
「まだ」
とだけ言った。
スパルタ人は「ふん」と鼻息をふいて踵を返し、近くの並木道へ駆け足をしにいった。
視線をもどしたみらのの目の前には、黒いトレイに整然とおさめられた、いくつもの小さなプラ鉢が並んでいる。
彼女が見つめているのは、そこに植えられた多肉植物たちだった。
みらのは、植物が好きである。
どれくらい好きかというと、植物図鑑を数冊もっていて、街で植込みや街路樹を見れば八割がたはその名前が分かる。
かよっている高校では、たのまれもしないのに毎日のように花壇の手入れを手伝い、休日にはしばしば植物をみるためだけにひとりで公園や植物園をおとずれる。
生まれ育った家の庭に、自分で買い集めた植物の鉢を大量に置き、そのすべてに日々の水やりを欠かさない。
そんなみらのが、今、人生ではじめて、自分で多肉植物を買おうとしていた。
以前から、みらのの家の庭には、2種類の多肉植物が存在していた。
ひとつはアロエだ。
厳密にいえば「アロエベラ」ではなく「キダチアロエ」というやつなのだが、まあ、とにかくアロエである。
みらのが生まれるより前に、祖母が鉢植えをひとつ買ってきた、らしい。
それが地面に根をおろし、増殖に増殖を続け、今ではガレージの横一列のスペース全部をトゲトゲの葉で埋めつくしている。
だれも水をやったことがないのに枯れず、そして花は一度も咲いたことがない。
みらのが、これまでの人生で、多肉植物にあまり興味をもたずに生きてきた理由の多くは、このアロエにあった。
彼女にとって多肉植物とは、この「ガレージ横のアロエ」のイメージであり、とにかく丈夫で、こちらが特に気にかけずとも勝手に増殖し、なんならちょっと邪魔なくらい生い茂っているという、雑草と大して変わらない存在だったのだ。
その意識を変えたものこそ、もうひとつの多肉植物だった。
みらのの記憶がたしかならば、そいつは、みらのがまだ小学生だったころに、父親が職場からもらってきたものだ。
かわいいマグカップみたいな鉢に多肉植物が植えられ、土の表面が色砂でかためられているやつである。
背の高さは、5,6㎝くらい。
小さくて細い獣の爪が、上向きにびっしり並んだみたいな形の葉。
全部の葉に、緑と白の、こまかい横じま模様が入っている。
かわいいか、かわいくないかというと、あまりかわいくなかった。
しま模様が細かすぎて、どことなく、怪獣や宇宙人ぽかった。
『みらの、これ、いるか?』
『うん』
と、父親がくれるというので一応そいつを受け取ったみらのは、しばらくのあいだ、そいつを部屋の机の上にかざっていた。
だが、しばらくすると、そいつはだんだん元気がなくなってきた。
葉全体がしなびたようになって、色も悪くなってきた。
あたりまえである。
置物ではない。植物なのだ。
日光がまったく当たらず、風通しも悪く、しかも水をほとんど与えられない状況では、やがて枯死してしまう。
だが、小学生のみらのは、まだ、そこのところがはっきりと分かっていなかった。
本能的に、
(このままだと、こいつは枯れる)
と察したみらのは、鉢を外に持ち出し、庭の片隅に置いて、水をぶっかけた。
外にさえ出せば、まだ何とかなるのではないかという希望が2割。
きっともうだめだ、枯れる姿を見たくないから遠くへやっておこう、という気持ちが8割ほどだった。
だが、8割がたの予想を裏切り、そいつは、華麗な復活をとげた。
ほどよい日当たりと、ほどよく雨があたる環境がよかったのか、そいつはすっかり新たな環境に順応し、しなびていた葉にふたたび生気をみなぎらせ、ぐんぐん新しい葉を出して成長し始めたのである。
みらのは、ほっとした。
あまりにも旺盛に伸びるので、マグカップを割ってやり、色砂を落として、一回り大きめの鉢に新しい土を入れて植え替えてやった。
そいつは、それからも順調に成長しつづけ、上に伸びるだけでなく横からもぐんぐん子株を出し、数年を経て、とうとう鉢からあふれんばかりになった。
(これ……もしかして、株分けしたほうがいいのかな)
と、水やりをしながら、ふと思ったのが、先週の土曜日のことである。
数年間、水をやる以外の世話をまったくしてこなかったのだが、急に、その過密具合が気になったのだ。
あまりにも増殖しすぎて、上から、土がほとんど見えない。
水もしみこみにくくなっているようだから、たぶん根詰まりも起こしている。
(そういえば、多肉植物の株分けってどうやるの? 強引にブチブチって分けても大丈夫なのかな。ていうか、そもそもこいつ、何ていう植物なんだろう?)
習慣で、ただ機械的に世話をし続けてきた多肉植物に対して、はじめて本格的に興味がわいた瞬間だった。
みらのは、手にしていたじょうろを置いて、スマホで「多肉植物 しましま」と検索した。
彼女が高校生になってから家にやってきたスパルタ人が、そばでぶんぶんと槍の素振りをしているのを尻目に、画像をどんどんスクロールする。
(あった! はお……ハオルチオプシス「十二の巻」!)
それが、そいつの名前だった。
(すごくかっこいい。古文書みたいな名前。どうしてこんな名前になったの?)
即座に「十二の巻 由来」で検索する。
ひとつのことに興味を持つと、連鎖的にわからないことが出てきて、それをどんどん調べながら知識を増やしていくのが、みらののやり方だ。
結局「十二の巻」という神秘的な名前の由来ははっきりしなかったが、株分けはかんたんにできることが分かった。
自転車を飛ばしてホームセンターに向かい、多肉植物用の土を買った。
庭の片隅に山と積まれた鉢のなかから、ちょうどいい大きさのものをいくつか探し、「十二の巻」をもとの鉢から引っこ抜き、三つに株分けしてそれぞれの鉢に植え付けるころには、みらのの心は、すっかり「多肉植物モード」になっていた。
(他にも、多肉植物を育ててみたいな。そういえば、今度、多肉植物の即売会があるって、どこかの記事で読んだような――)
そんなことがあって、今日、みらのはここにいるというわけだった。
SNSやブログの記事をあれこれ読み比べて、候補はすでに決めている。
(ハオルチアの仲間が欲しいな)
プチプチ、ムチムチ、キラキラ。
そんな感じの多肉植物である。
キラキラというのは、ハオルチアの仲間の特徴である「窓」のことだ。
たとえば「オブツーサ」なら、親指みたいな形の、丸みをおびた葉がぎっしり並んでいて、その葉の先端が全部、まるで氷砂糖か磨りガラスみたいに透きとおっているのである。
これまでみらのが育ててきた植物たちのなかに、こんな半透明キャラはひとつもいなかった。
(どれにしようかな)
さっきから、それを延々迷っているのである。
オブツーサ。万象。紫オブツーサ。玉扇。
鉢には、それぞれの名前を記した札がさしてある。
名前や姿が気になった鉢を、そっと持ち上げては、いろんな角度で葉の先端の「窓」を光にすかし、透明具合をたしかめた。
植物は、一度買ったら、長い付き合いになる。
がっちりと健康そうなものを選ぶのは基本として、自分の好みにぴったり合った、これぞという一鉢を選び抜くことが大切だ。
そうすれば、お世話をするときの気分も違う。
葉のすき間から、針金のように細長い茎をシューッと伸ばして、その先端に小さな花を咲かせている鉢もあった。
だが、みらのは、すでに開花している鉢には、あまり興味がもてなかった。
「十二の巻」の開花を、すでに何度か見ていたし、同じ咲かせるなら、茎がのびはじめる最初の段階から、自分の手元で観察したいからだ――
(おっ)
ゆっくりと横に歩きながらすべての鉢をくまなくチェックしていたみらのの目が、ひとつの鉢の上にとまった。
「玉露」――名札には、そう書かれていた。
高さがやや不揃いで、オブツーサよりもやや細めの葉。
葉の先端の半透明な「窓」を、緑の部分が、まるで縄文土器の火焔模様のようにふちどっている。
その緑の色合いは、玉露というより、抹茶を思わせた。
もちあげて日にすかしてみると、「窓」もきれいな半透明で、きらきら光った。
(これに決めた!)
並木道のほうに手を振って合図をおくると、走り続けて汗だくになったスパルタ人が、荒い息をつきながら戻ってきた。
日本の夏は、下手をしたらスパルタ人でも倒れるくらい蒸し暑い。
「決めた。これにする」
「遅いッ」
「でも、植物を選ぶのは、三百人隊のメンバーを選抜するのと同じだから」
みらのが言うと、スパルタ人は「ふん」と言った。
納得したらしい。
「今からお金払ってくるから、水浴びでもしてきたら?」
スパルタ人が近くの噴水で水浴びをしているあいだに、みらのは会計をすませ、育て方の説明書をもらい、そばの自動販売機で水のボトルを買った。
甘い飲み物を買うと、スパルタ人が「奢侈に溺れるな」と文句を言うからだ。
電車に乗って帰るあいだ、みらのは会計のときにもらった「ハオルチア玉露の育て方」にじっくりと目を通した。
「室内の、明るい窓辺で育てるんだって」
「外でいいだろう」
「どうして?」
「室内で育てるなど、軟弱だ」
「でも直射日光が苦手なんだって」
「気合があれば大丈夫だ」
「日本の夏は、気合じゃ無理だから。あなたも熱中症で倒れたことがあったでしょ」
「不覚だ。気合が足りなかった」
「植物には気合とかないから」
「貴様、そんなことでポリスを守り抜けるとでも思っているのかっ」
「もしかして玉露に言ってる?」
家に帰ったみらのは、自分の部屋、廊下、キッチンとさまざまな窓辺を歩き回り、日照の強さや時間帯、風通し、気温などをたしかめた。
最終的には、午前中にすりガラス越しの日光があたる、玄関の靴箱の上に置くことにした。
それからというもの、土曜日になると、みらのはまず玄関に行き、光を受けてかがやく「玉露」を眺める。
金曜日の夜に水をやることにしているから、心なしかパツンと張りもよく、つやもあるようだ。
心ゆくまで「玉露」を眺めてから、みらのは庭に出て、でかいじょうろに水をくみ、植物たちに水をやる。
もちろん一度では足りない。庭で素振りをするスパルタ人の槍をよけながら、何往復もする。
これが、みらのが一週間で一番好きなひとときである。