第72話 消失の手をかざした俺が、あらゆる障害を消失させる話。
「〈ザ・ヴォイド〉ッ!」
強烈な閃光に包まれながらも、トヲルは両手を前にかざして叫んだ。その両手がどこにあるのか、すでに見えなくなっている。
消失の力はその対象が巨大であればあるほど、トヲルの身体に負担が跳ね返って来る。宇宙誕生という桁外れに強大な力を消失させた時、彼の身体がどうなってしまうのか、想像もつかない。
両手どころか、もはや自分の姿を保てているのかすら自分でも分からなくなっていた。
「……メイ、君自身がさっき言ったことだ」
遠のいていく意識のなか、トヲルは不思議と落ち着いていた。
「宇宙が生まれる前、そこには何も無かった――って。つまり世界の、宇宙の本当の原点は、無なんだ。多分、何かが生まれることより消えることの方がずっと自然で絶対的なことなんだよ」
だから人は、生み出されたものを大切にするのだと思う。
「この喧嘩は、初めから俺の負ける理由が無い。そう思わないか?」
何も見えない、永遠のような光に包まれていく。
その時、きいいん、と硬質な音が耳の奥で鳴るのを聞いた。
意識を失っていたのは、刹那だったのか、もっと途方もない長さの時間だったのか分からない。
「……!」
気付いた時、トヲルは仰向けに倒れていた。
「メイッ!」
反射的に身を起こすと、そこは先ほどまでいた図書館の白い床の上だった。
メイは椅子に腰かけ、両手で頬杖をついてトヲルを見下ろしていた。
「……どれだけ大きな数でもゼロをかけたらゼロ……か。何だか、やっぱりズルされた気分」
トヲルはほっとしてメイの不服そうな顔を見上げた。
「……だったら、もう一度試してみるか?」
メイは目を伏せて微笑み、首を振った。
「言ってみただけ。ズルなんかでわたしの全力を止められる訳ないもの。認めるよ、お兄ちゃんの勝ち。約束通り、言うことを聞いてあげる」
「そうか……良かった。君の意思を邪魔したんだ、絶対に後悔させないよ」
立ち上がったトヲルを見上げ、メイは微笑んだ。
「そうね。お兄ちゃんには、その責任があると思うよ」
「それで……ここから出る方法、君なら分かるのか?」
「うん。でも――」
メイの口から、地の底から響くような声がした。
『我が逃しはせぬ』
トヲルはぎくりとしてメイの顔を見た。
彼女の青い瞳が、墨を溶かしていくように黒く濁っていく。
「……そう。マルガレーテさんを避けてここから出て行くことはできない」
声音がメイのものに戻る。
「メイ……君は」
「大丈夫、心配しないで。わたしとお兄ちゃんなら、必ず彼女を倒せるよ」
「……そんな、どうやって……」
メイの瞳が、全てを呑み込むような漆黒へと変わった。
「今は言えない。でも絶対に諦めちゃ、ダメだからね。わたしを信じて」
「ま……待て、メイ!」
トヲルが呼びかけるが、メイはそれきり椅子に腰かけたまま口を閉ざしている。
「……嘘だろ」
その肩に触れようとトヲルが手を伸ばすと、メイはその手から逃れるように背を向けて椅子から立ち上がった。
感覚を確かめるように、両手を数度、握っては開く。
「……ようやく成ったか。待ちわびたぞ、この時を」
その唇から漏れた地の底から響くような声。
おもむろに振り返ったメイの顔を見て、トヲルの背筋がぞくりと凍り付いた。
彼女の口の端が、漆黒の三日月のように吊り上がっていたのだ。
暗闇が迫って来るような、あの不気味な笑顔だった。
「あんたは……」
かろうじてかすれた声をあげるトヲルを、相手は漆黒の瞳で見据える。
「我こそは、マルガレーテ・フォン・ファウルシュティヒ」
妹の姿をした魔女――マルガレーテはそう名乗った。
*
不気味な笑顔はすぐに消え失せ、仮面のような感情の無い顔が残る。
姿そのものはメイのものに違いなかったが、先ほどまで豊かな表情を見せていた妹とは似ても似つかない。
「マルガレーテ……!」
もはやそこに立っているのは別人だ。
「我が読みは正しかった。やはりメイとトヲル、うぬら二者の邂逅こそが我が術式を完成させる最後のひと筆であったのだ」
「……どういうことだ」
「うぬがここへ至る前に我は告げたはずだ。うぬこそが、メイの魂をこの世界に繋ぎ止めている最後の未練だとな」
メイの姿をしたマルガレーテは無表情のまま続ける。
「メイの全力を、うぬが凌駕した。それを契機としてあの娘の魂を繋ぎ止めていた糸がついに切れた」
「そ……そんな」
「我が今、メイの魂を取り込みしがその証よ。うぬが、メイの抱き続けていた心残りというものを消失させたのだ」
「違う……俺達は確かにぶつかったけど、メイは納得してくれたはずだ」
「納得……? さもあろう、満たされればこそ未練も晴れる。本人も気付かぬほどに他愛のなき未練であった。ただ兄にもう一度会いたい――それだけの思いで、あの娘はカンナヅキに取り込まれ〈ザ・ワン〉となった後もなお、強固な自我を保ち続けていたのだ」
「……!」
トヲルは自分の右手に意識を向けた。
そのままマルガレーテにかざそうとしてみせたが、彼の身体はぴくりとも動かなかった。
「……無駄だ。忘れたのか? うぬは〈ザ・ワン〉を手にする前の我にすら、手も足もでなかった。今の我にとって、うぬの思考を読み、動きを制するなど造作もないことだ」
マルガレーテが右手を動かすと、その動きに従ってトヲルの身体が床から浮き上がった。
「……ぐ……ッ」
「なるほど。これが〈ザ・ワン〉……これこそが我の求めし全知全能か」
全知全能。
全ての叡智をその身に宿す。
ただそれだけを行動原理としてきたマルガレーテ。
しかし、その表情に先ほどのような笑顔はおろか、何かの感情が浮かぶ兆しすら無かった。
無表情に漆黒の瞳で浮き上がったトヲルを見るマルガレーテは――むしろどこまでも虚ろだった。
「特性〈ザ・ヴォイド〉……これまで多くの存在を消し去って来たのであろう。最期はうぬ自らも、この世界から消え失せてみよ」
「……」
空中で身動きができないまま、トヲルは視線だけ動かして魔女をにらんだ。
マルガレーテの特性〈スペルクラフト〉も、詠唱によってあらゆる現象の再現を可能にする強力なものだった。今の彼女は、その詠唱すら必要としないのだろう。
しばらくトヲルとマルガレーテは視線をぶつけ合っていた。
「その目……この期に及んで、まだ諦めを知らぬか」
マルガレーテの呼びかけに、トヲルは答える。
「メイが……絶対に諦めちゃダメだって言ってたからな」
マルガレーテは表情を変えない。
「……〈ザ・ワン〉……あの娘は、これを見越していたようだな」
「……え?」
「あえて取り込まれることで我に引導を下してみせたか」
弾かれるような衝撃を受け、トヲルは床へと倒れ込む。同時にその胸に、人の重さが飛び込んで来た。
思わず抱き止めたそれは、メイの身体だ。彼女は気を失っていた。
視線を上げれば、そこに黒いコートと黒いハットを身にまとった人影がある。
マルガレーテが、以前のままの姿でそこに立っていた。
「ど……どうして……?」
マルガレーテが、自らメイを手放したということだろうか。
ハットのつばの下で、マルガレーテは言った。
「我は、森羅万象、全ての叡智を希求する者。知ることこそが、我が存在理由なり。何人も我が行く手を阻むことあたわず。しかして我は――〈ザ・ワン〉となることでその全ての叡智を得てしまった」
トヲルは黙って言葉の続きを待つ。
「ひとたび得た叡智は、忘却することのあたわぬもの。これより先、我が何かを新たに知る瞬間が訪れることは、永遠に無い。我が向かうべき行く手は、今ここで完全に絶たれた。知ることの喪失によりもたらされし仮借無き絶対的な絶望……全知全能とは、我にとりまさに死と同義であったのだ」
マルガレーテが少し顔を上げたことで、帽子の下の表情が見えた。
ようやく分かった。
先ほどから見せていた虚ろな表情は、彼女の絶望から来るものだったのだ。
「我は――自ら取り返しのつかぬことをしてしまった」
カンナヅキによって生み出され、知るという欲だけを糧に途方もなく長い年月を生き続け、その欲のまま世界すら変えようとしたあげくに、訪れた絶望。
トヲルはその虚ろな表情に、どこか哀れさすら感じてしまった。
「メイがこれまでこの絶望を耐えきったのは、トヲルよ、まさにうぬがいたゆえか」
トヲルは彼の腕の中で気を失っているメイを見つめた。
「あるいは、我はどこかでこの時を予見していたのかも知れぬ。アリスを常に側に置き、うぬをこの場へと至らしめた。それらは全て、この最期を迎える為だったのかも知れぬ。いずれ考えても詮無きこと……全知の我は過去から未来にかけてもはや既知と未知の区別はつかぬ。トヲル・ウツロミよ、これはうぬの役目だ――」
マルガレーテはゆっくりと両腕を広げた。
「我を終わらせよ」
「……」
トヲルは黙って魔女の姿を凝視している。
本当にこれが、魔女の最期なのか。
どこまでも強大に思えた相手が、かくも唐突に自らの存在全てを諦めるものなのか。
あまりの信じられない思いに、トヲルの思考はそれ以上進まなかった。
「マルガレーテさん……」
その時、トヲルの腕の中でメイの声がした。いつの間にか意識をとり戻していたようだ。開かれた瞳は、青色に戻っていた。
マルガレーテが、黙って視線を彼女に向ける。
「……十年前、わたしのことを助けてくれてありがとう」
何かに耐えるように、メイはトヲルの腕を強く掴んだ。
「……ここまで育ててくれて、ありがとう」
マルガレーテは、しばらくその漆黒の瞳をメイに注いでいた。
だが特に表情を変えることもなく、彼女は無言のままゆっくりと目を閉じる。
全てを絶ち切るようなその瞑目を見て、トヲルはようやく理解した。
そうか。
本当に、これで終わりなんだな。
「……メイ」
トヲルが声をかけると、メイは小さく頷いてトヲルの胸に顔を伏せた。
彼は大きく息を吸い、口を開く。
「〈ザ・ヴォイド〉」
かざした右手の先から、魔女マルガレーテ・フォン・ファウルシュティヒの姿が消失した。
*
魔女が消失したその瞬間、トヲルのガントレットに嵌められていた魔石も砕け散る。
砕けた魔石の破片が床に落ちるのを見るよりも先に、急速に白い図書館の空間が視界から遠ざかった。
トヲルの身体が、凄まじい勢いでここまで来た道筋を逆行しているのだ。彼は抱きかかえたメイを離すまいと、腕に力を込めた。
その勢いのまま、トヲルとメイは突然空中へと投げ出される。
強い風を感じた。
激しく回転する視界に、沈みゆく夕陽の赤い光と、カンナヅキの青い光が交互に映った。
カンナヅキは、無数の光る粒子を空中にまき散らしながら、無音で爆発を繰り返している。
「出られたのか……外に? 大丈夫か、メイ!」
トヲルは強風のなか腕の中の妹を確かめた。
「大丈夫だけど……ッ、お兄ちゃん、わたし達今どうなってるのッ?」
メイは風に負けないように叫び返して来た。
良かった、ちゃんといる。
トヲルは安心しかけたが、二人が置かれている状況はとても安心できるようなものではなかった。
激しい風にあおられて前後左右に回転しながら、高速で落下している。
せっかく妹を助け出したのに、これではこのまま地面に激突してしまう。
ここから地上までの距離を消失させて着地するしかない。
トヲルは右手をかざそうとするが、無秩序に回転する視界に、どちらが上でどちらが下かすら分からなくなる。
「くそッ! 止まれ……ッ!」
その時、誰かに肩を触れられたような感触とともに、突然二人の身体は空中で制止した。
「……!」
空中に漂ったまま、呆然と周囲を見回すトヲル。
「……よお。よくやったな、トヲル」
夕陽を背にして、見慣れた人影が空中に漂っていた。
「……ヴィルジニアッ!」
トヲルは思わず相手の名を叫んだ。
「とりあえずこれ、着せてやれ」
ヴィルジニアは腰に巻いていた黒いコートを、メイの身体に投げかけた。
メイはそこでようやく自分が一糸まとわぬ姿でいることに気付いたようだ。
「うわわッ?」
彼女は慌ててコートで全身を包み込んだ。
「おまえがトヲルの妹か。ってことは、おれの妹だな」
コートの前をかきあわせつつ、メイが戸惑った表情を見せる。
「え……お姉ちゃん? わたし達、三人きょうだいだったっけ」
「二人だろ。でも……ある意味、ヴィルジニアは俺達のお姉ちゃんなんだ」
ヴィルジニアはにやりと笑うと、頭上に向けて掌をかざし、空間を円く撫でた。
引力を操る特性〈フライングソーサー〉だ。
高速で落下してきていた複数の人影が、そこで制止する。
アイカ、ディアナ、ゾーイ、シェカールにエル。少し遅れてクロウが飛来して来た。アリスを胸に抱きかかえている。
「これで良し! 全員いるな?」
ヴィルジニアの姿に気付いたクロウが声をあげた。
「ヴィルジニア!」
「あ、あんた何でここにいるのよッ? 寝てなくて大丈夫なの?」
「いやおまえが言うなアイカ! 大人しく部屋で寝てたらカグヤの奴に蹴り飛ばされたんだ。いつまで寝てはんの早う上のけったいなもん何とかして来よし、つってな。あいつ無茶苦茶だ」
ヴィルジニアは緩くウェーブのかかった髪に指を入れた。
「みんなッ!」
思わず笑顔になってトヲルは叫んだ。
アイカも目を見張って叫ぶ。
「ト、トヲルじゃん! 良かった、ちゃんと戻って来た!」
「ほんとだ、トヲルだ! ねえそれじゃそのコが……きみの妹?」
クロウが仮面を押し上げつつメイの顔を覗き込んだ。
「ああ……! 俺の妹、メイだ」
「は、初めまして……」
少し気後れした様子でメイが言うと、クロウに抱かれたアリスが勢いよく手を振った。
「メイさん! わたし! アリスよ!」
「アリスちゃん? また会えた!」
思わず手を伸ばしたメイは、空中でアリスと手を合わせた。
「……見事だ、トヲル。きみはついにやり遂げたんだな」
ディアナが風になびく白金の髪を抑えながら目を細めた。
「これほど嬉しいことはない。まるで自分のことのように誇らしい気持ちだよ」
「みんなが助けてくれたお陰だ」
トヲルは胸がいっぱいになりながらそう答えた。
「……ホントにトヲルにそっくりなのね」
「ゾーイも自己紹介とかしたいけど、ゆっくりお話するのはもう少し後にした方が良さそうなのである」
しっかりと黒い仔猫を抱き抱えているゾーイが頭上を見上げて言う。
音も無く爆発を繰り返すカンナヅキは光の粒子となって空中に飛散していくが、カンナヅキと融合していたカヴンステッドの樹木はまだ形を保っていた。
「そうじゃな。このままではあのカヴンステッドの残骸がケラススフローレスの街に墜落してしまうぞ」
エルも帽子を片手で押さえてゾーイの視線を追っている。
カンナヅキの光の粒が、微細な六角形の破片となって辺りに舞っている。それは雪の結晶のように舞いながら空中へと溶けていく。
六角形の破片を手に受けながらシェカールもうなずいた。
「爆発は続いているようですが、この調子では墜落前に全てが崩れ去ることはなさそうですね」
「カンナヅキを失ったわたしにもう〈ザ・ワン〉としての力は無い――」
メイがトヲルに言った。
「ここはお兄ちゃんに任せるしかないんじゃない?」
アイカが軽く頷いて同意する。
「そうね。トヲル、ひと思いにやっちゃって」
「……うん」
トヲルは大きく右手を広げ、頭上で崩れつつあるカンナヅキに向けた。
メイが黙ってその右手に自分の右手を重ねる。
「あ! ねえねえ、それじゃあアレ、みんなで言おうよ」
クロウがぱたぱたと翼を動かした。
「はあ? 何でよ。トヲルが言うからトリガーになんのよ。あたし達が言ったって意味ないじゃん」
「意味とか関係ないんだよう。最後のシメみたいなものなんだよう」
「わたし、賛成よ!」
アリスが勢いよく手をあげた。
「そうだな。アイカ、これをわたし達の勝利宣言としよう」
ディアナも右手を頭上に掲げた。
「ふむ……勝鬨というものじゃな。たまにはよかろう」
エルも右腕をあげる。
「エルまで……」
「何だか長いようで短かったのであるなあ」
ゾーイが右手をあげる横で、ヴィルジニアもそれに倣った。
「……だな。でも色々なことがあった」
「私は……この瞬間を、生涯忘れません」
シェカールも右腕をかざした。
「ったく……しょうがないなあ」
アイカも苦笑しながらようやく右手をあげた。
クロウも右手をあげて言う。
「よおし。トヲルも準備はいいよね? それじゃあいっくよお……せえのッ――」
仲間の声に負けないように、トヲルは思い切り叫んだ。
「〈ザ・ヴォイド〉ッ!」
第三部 完
次回「エピローグ」
次回をもって最終回です。
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