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第54話 温泉を堪能する俺が、雪男から静かな激励を受ける話。

 温泉とはいいものだ。

 エルやゾーイの気持ちも分かった気がする。

 トヲルは深呼吸しながら大きく伸びをした。


「あれえ? トヲルはどうしたの?」

 遠くからクロウの声がして、思わず浴槽の中でずり落ちたトヲルは危うく水没する所だった。


「男湯に決まってんでしょ。何で来ると思ってたのよ」

 アイカの呆れ声がそれに応じる。

「恥ずかしいなら透明になればいいのにねえ?」

「正気か。あっちじゃなくてこっちの問題でしょうが」

「クロウはん……独特な感性してはんなあ」

「ほら、淫魔まで引いてんじゃん」

「淫魔と違うわ、しばかれたいんか」


 女湯の方からだろう、賑やかな声が届く。

 男湯を見下ろすような上方に高い垣根が見え、その向こうから湯気が立ち昇っているのが見える。

 割と近い位置に女湯があったようだ。


「わあディアナさん、凄く綺麗なのね。素敵だわ」

「ちょちょちょちょ、アリス待て! そこは不用意に触れていい場所ではない!」

「狼の時にたくさん触っているわ?」

「そこは違うのだッ!」


「……」

 こちらが静かな分、会話がかなりはっきりと聞こえる。

 何となくいたたまれなくなったトヲルはエルに声をかけた。

「ね、ねえ。エル、何か話しようか」

「……」

 エルは目を閉じたまま微動だにしない。寝ているのだろうか。


 その時、入口の方から扉の開く音がした。

 身をかがめるようにして風呂場に入って来たのは、シェカールの長身だった。


「どうも……おくつろぎの所、失礼いたします」

 服を脱いでいる。彼も温泉に入りに来たようだ。


「シェカールさん。お仕事終わったんですね」

 少しほっとしながらトヲルは言った。


「いえ、これも仕事のうちです。姫が温泉に入っている間は、私も温泉に入るように日頃より指示を受けているのですよ。私が外で待機していると、気になってくつろげないのだそうで」

 シェカールは眼鏡を外して掛け湯を浴びた。

「……したがって姫が温泉から出るまでは私もここから出られないのです。お邪魔かとは存じますが、ご了承ください」

「と、とんでもない。むしろ助かりました」

「……助かった?」

 眼鏡をかけ直しながら、彼は不思議そうな顔をする。


「いえこっちの話です。カグヤさん、付きっきりのシェカールさんに息抜きの時間をあえて作っているのかも知れませんね」

「ええ、まあ……確かにそのような心遣いをしてくれる方ですね、姫は」

 シェカールの大柄な身体が浴槽に沈む。

 湯が大きく波立ち、小柄なエルは頭から波に飲み込まれた。


「ぶぉはあッ! げほッ! ごぇほッ! げほげほッ!」

 たまらず浴槽の縁に手を突いて激しくむせるエル。

「こ、これは失礼しました、機関長! いらっしゃるのが見えていませんでした」

「良い、気に……ぇほッ! するでない」

 エルは縁によりかかってぜいぜいと肩で息をしている。

「ほとんど浴槽の石組と同化してたもんね」

「死ぬかと思った……」

 小さな背中を撫でてやりながら、トヲルは尋ねた。


「それにしてもカグヤさんって……そんなに常時護衛が必要な人なんですか?」

 シェカールはうなずく。

「ええ。最前線を常に移動している機関長とは違い、事務局長である姫は基本的にこの地から動かないうえに、仕事柄おおやけの場に出ることも多いのです。人外種とはいえ、機関長のような戦闘力に長けた人でもない――今回のマーティ・サムウェルの蜂起といった規模ほどではないものの、彼女の身を害しようと考えるような人物や組織の情報は後を絶ちません」


 呼吸が落ち着いたらしいエルは、浴槽の縁に腰かけた。

「実際にシェカール・ロックがそうした不逞(ふてい)(やから)を制圧した例もあるのじゃ。役目とは言え、苦労をかけるのう」

 生真面目な様子で、シェカールは指で眼鏡の位置を直した。

「ありがとうございます。ですが苦労と考えたことはありません。ヤクモ機関とはそうした組織ですから。それに、今はトヲルさんのような人もいる。何かが変わっていくような期待も感じています」

「ふむ……」


「俺……?」

 トヲルはエルとシェカールの顔を見比べた。


「レッドドラゴンの一報を聞いた時、正直に言って胸が奮えました。今の世界にも勇者がいるのだと――。トヲルさん、こうしてお会いできて光栄です」

 シェカールはそう言って、引き締まった口元に微かな笑みを浮かべた。


 トヲルは揺れる水面に目を落として言った。

「そんな……勇者なんて大それた呼び方、俺には不釣り合いですよ。俺はただ妹と再会したいだけで行動していて、それをアイカ達みんなに助けて貰いながらようやくここまで来れたんだから」


「あなたがここにいるのは、これまで決して歩みを止めなかったからでしょう? 人は誰しも、困難や絶望を前にした時、天を仰ぎ地に伏してしまう……足がすくみ、歩みを止めてしまうものなのです。ですがそれでもなお――」

 シェカールは淡々と続けた。

「歯を食いしばって顔を前に向け、あえてそこから一歩を踏み出す人がいる。その一歩こそが勇者の証であると、私は考えています。ですから私は確信しているのですよ。あなた方は、まごう事なき本物の勇者なのだと」


 トヲルはシェカールの顔を見た。

 世辞でも社交辞令でもなく、真っ直ぐに事実だけを口にしているような様子だ。


「私があなた方のような勇者であれば……そしてあなた方のような勇者がもっと多くいれば……世界はこんなことになっていなかったかも知れない。私は自らを恥じてやまない」

 わずかに俯いたシェカールに、エルが濡れた髪をかき上げつつ言う。


「あるいはおぬしの言う通りやも知れん。じゃが、困難や絶望を恐れ、背を向け、避けるのも人の自然な在り方じゃ。ヤクモ機関の長としてはいささかふさわしくない言葉じゃが、世界はある意味、なるようにしてなったとも言えるじゃろう。そしてそれは、おぬしが恥じるようなようなことでもない。一歩を踏み出すことは、どこからでもできるのじゃ……この男のようにな」

「……はい。胸に刻みます」


 彼は畳み直した手拭いを頭に乗せ、再び浴槽の中に身を沈めた。

「誇りを抱き、胸を張れ――トヲル・ウツロミ。おぬしの歩みを見ているものがすでにいる」


「……」

 温泉の効果だけではないだろう。

 思いがけずかけられた励ましの言葉に、トヲルは胸の奥が熱くなった。

 慌てて手で目元を拭う。


「いやあ、温泉ってのは気持ちがいいものだねえ! ひゃっほーうッ!」

「全裸で空を飛ぶんじゃないッ!」

「いッたああいッ? アイカに撃たれた!」

 一瞬、女湯の上方を翼を広げた人影がよぎったような気がしたが、シェカールもエルも気付いていないようだ。

 トヲルも気付かなかったことにした。



 すっかり身体が温まったトヲルは、一番最初に風呂場を後にした。

 エルはまだ温泉に浸かっているという。

 風呂上がりに着るものとして、浴衣が準備されていた。

 さっぱりとした生地が火照った肌にも優しい。


 脱衣所を出た休憩所では、同じく浴衣姿のカグヤが床几に腰かけて扇を使っていた。

「……あらあ。トヲルはん、今あがりはったん? こっちにおいで」

 と、こちらへ向かって小さく手招きをする。


 近寄ったトヲルに、カグヤはかたわらの壺から柄杓を使って椀に中の液体を注いだ。

「どうぞ。お風呂上がりにはこれが格別なんやわ」


 言われるままに椀に口を付けると、冷たい液体が喉へと流れ込んだ。

 柑橘の爽やかな香りが鼻へ抜けると共に、柔らかな甘みが広がる。何より、弾けるような炭酸の刺激が心地よい。

 思わず一気に飲み干したトヲルに、カグヤは笑いかけた。


「レモンとハーブ、蜂蜜でこしらえたシロップをソーダで割った迎賓館特製レモネードや」

「美味しい。確かに、風呂上がりには最高ですね」

「せやろ? ほんまはもうちょっと冷えてるとええんねんけど……あ、ええ所にシェカールや」

「え?」


 丁度その時、脱衣所のカーテンをめくってシェカールが姿を現した。

 風呂上がりにも関わらず、黒スーツを元通りきっちりと着込んでいる。

「私が何か?」

「あんたはんの特性の出番やって言おうとしてたとこや」


「ああ、なるほど……こちらですね」

 シェカールは軽く頷いて、カグヤの横の壺を軽く拳先で小突いた。

 壺の表面が見る見るうちに白く霜をまとう。


「つ、冷た」

 壺に触れると、氷のように冷えている。

「私の特性は〈グレイシャルピリオド〉――このように、冷気を操ることができる能力です。ちなみに姫やトヲルさんと同じく、人外種でもあります。種族〈イェティ〉、いわゆる雪男ですね」


 冷気を操る雪男――温泉から出たばかりでスーツを着込んで汗ひとつかいていないのも、彼の能力のうちなのだろうか。


「せや、トヲルはんは透明人間いう人外種なんやてな。いつでも透明になりはることができんの?」

 カグヤはドリンクのおかわりを注いでやりながら言う。

 冷たい椀を受け取ってうなずくトヲル。

「うん、〈インヴィジブルフォーク〉という種族で……意識を向ければこんな感じに」

 そのままトヲルの姿は周囲に溶け込むように透明になった。


「凄い凄い。こないなID、うち初めて見たわ。浴衣やお椀まで透明になってる……どういう仕組みなんやろ」

「俺を見る人の認識を阻害して見えなくなるんじゃないかって言われてるんです。肉体だけじゃなく、“俺という存在”が透明になってるってことなのかも」


 シェカールがしげしげとトヲルがいた場所を眺めている。

「なるほど、認識を阻害……分かっていても透明としか思えないですね、これは」

「おもろいなあ……せやったら、その気になればトヲルはん以外の人も透明にできはったりすんの?」

「……え?」

「見る側の認識が阻害されて見えへんようになってはんのやろ? その認識の阻害ってどこまでが範囲になんのやろ。例えばうちを透明にすることもできたりせえへんのかな思てんけど」


「透明化の範囲を変える……ってこと?」

 自分でそう口にして、トヲルははたと考え込んだ。

 以前、アイカにも指摘されたことだ。透明になる対象の範囲はどこまでなのか、今ひとつ曖昧だ。

 それは逆に、範囲を広げたり狭めたりする余地があるということかも知れない。 


 透明になるのは自分という存在――その自分という存在の範囲を変える。

 果たしてそんなことが可能なのだろうか。


「……あんた……何で女湯の前で透明になってんの?」

「は……え?」

 どれくらい考え事をしていただろうか。

 声に気付いて顔を上げるトヲル。


 温泉から上がったらしいアイカ達が、浴衣半纏姿で立っていた。

 腰に片手を置いたアイカが、疑念を込めた眼差しを向けている。

「まさかトヲル、〈インヴィジブルフォーク〉としての一線を越えちゃったんじゃ……」


「ち――」

 トヲルは何を疑われているのかようやく理解して慌てて透明化を解いた。

「違うッ! 全然違う! 俺はただ、そこにいるカグヤさんと――」


 床几の上に腰かけていたはずのカグヤがいない。

「ってあれ、いないッ? 何で黙っていなくなってんだッ?」

 シェカールの姿も無かった。


「何ワケ分かんないこと言ってんの、ここにいんのはあんたひとりよ。正直に白状しなさい、覗いたのか。ついにやっちゃったのか!」

「誤解だよ! 大体、透明になってもアイカやディアナは俺に気付くだろ!」

「やっぱりやっちゃったんだ!」

「だからやってない!」


 トヲルに詰め寄るアイカの横で、クロウが陽気に笑っている。

「水臭いなあ、トヲル。わざわざ透明にならなくたって、言えば見せてあげるのに。次は一緒に入ろうよ、ねえアリス?」

 アリスは小さく跳ねて喜んだ。

「そうね、みんなでお風呂楽しかったわ。トヲルさんも背中を流しっこしましょう!」


「余計なこと言わないの、クロウ。話がブレるでしょうが」

「わ……わた……わたたしも、と、トヲルがのの、望むのであれば……」

 顔を真っ赤にして半纏の前を握りしめているディアナ。

「ディアナも無理に張り合おうとしなくていいから……口が回ってないわよ」


 そこへシェカールを伴ったカグヤが悠然と戻って来た。

「あらあ、みなはんもあがりはったんやな。温泉の後は美味しいご飯。ちょうど宴の支度も整った所や。ゾーイはんとエルはんはまだ温泉の中やろけど、じき出て来はるやろし、どうぞお先にこっちへ」


「……カグヤさん……どのタイミングでいなくなってんだよ……」

 恨みがましいトヲルの目を、素知らぬ顔で受け流すカグヤ。

「ん? せやからうちはちょこっとあっちまで支度の確認しにな」


「……申し訳ない、トヲルさん。姫の悪ノリを断り切れず……」

 小さく頭を下げるシェカールの横で、カグヤは愉快そうに扇を揺らした。

「ほほ、シェカールまで何を言うてはんのやら。でもまあ、おもてなしの席が賑やかなのんはええことやもんな?」


 カグヤ・グランシャドウ、ヤクモ機関の事務局長にして城塞都市ケラススフローレスの実質的市長――油断も隙も無い相手だ。



つづく

次回「第55話 約束の場所にたどり着いた俺が、世界の意思の姿を目にする話。」


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