第42話 毒手の脅威を前にした俺が、赤竜の復活を見る話。
「〈ザ・ヴォイド〉!」
アイカによって空中へ投げ飛ばされたトヲルは、岩壁の一部を洞穴のように消失させ、新たな足場を作った。
「アイカッ!」
苦痛に耐えきれずうめくアイカ。
「う……ぐ……あたしの腕……」
ただれた右腕には自分でも触れることすらできず、肩口を押さえている。
「このやろうッ! おれが潰してやるッ!」
ヴィルジニアは自らの引力を操作して岩壁に張り付いていた。
今にもマーティに向かって突進しようと槍を構える。
「近付いちゃダメ!」
アイカはそう叫ぶと無事な左腕で髪留めを掴み、自らの首筋を切った。
噴き出した鮮血が細かい粒子となって周囲に霧のように充満していく。
ヴィルジニアから離れたバックラーに引力が戻り、岩棚に墜落した。
アイカは自ら作り出した霧の上に浮いている。
立ち込める紅い霧のなか、岩棚に倒れるマーティの周囲数メートルの霧が黒くよどんだ色に変化した。
「見て、あいつの周りが……全部毒なのよ。あの黒くなった霧に触れる距離まで近付くと、こうなっちゃうってワケ……」
毒の侵食が止まらない。
黒くただれたアイカの腕から、肉片が剥がれ落ちた。
「……うああッ!」
脂汗を浮かべたアイカの口から悲鳴が漏れ、霧の上に浮いていた身体が大きく傾いた。
「アイカ!」
ゾーイだ。
岩棚の上にいた彼女の片脚が数メートル近く伸び、空中のアイカを受け止めていた。
間髪入れず伸びた脚に白い布を巻きつけると、脚が一瞬で元の長さに戻る。
ゾーイはアイカの身体を岩棚の上にそっと置いて言った。
「大丈夫、ゾーイに任せるのであるよ!」
今度は白い布を、アイカのただれた右腕を包むように巻きつける。
「うううッ!」
仰け反って強くうめいたアイカだったが、次の瞬間には目を見張っていた。
白い布が解かれる。
布の下から現れた彼女の右腕は、もとの紅い紋様の浮かぶ白い肌に戻っていた。
毒の侵食などは跡形もない。
「あ……あたしの腕が……ッ?」
「特性〈ブラック・ファラオ〉。それはIDを変形し、復元する能力。アイカの腕を、元に戻したのである」
「き、傷を治せる……ってこと?」
「うん、変形の方は負担が大きすぎるからゾーイ以外のIDに使うことはできないけど」
得意げに含み笑いをするゾーイ。
「うふふ……他人の特性に詳しいアイカも〈ブラック・ファラオ〉の本当の力には気付いてなかったのであるね」
変形と復元。
アイカの身体を受け止める時は一瞬で脚を伸ばし、また戻してみせていた。
バックラーの上から投げ飛ばされた時も、そうして身体の一部を伸縮させることで岩棚の上に着地していたのだろう。
アイカは大きく息をついて、笑みを浮かべた。
「そう……助かった、ありがとう」
「まだ油断はできないのである。今みたいに外傷なら治せるのであるが、もし毒が体内に回っていたら……ゾーイの手に負えないのであるよ」
ゾーイはアイカの顔を覗き込んで言った。
「……あたしにはそれで充分」
アイカは身を起こし、治ったばかりの右腕を伸ばして手首を髪留めで切り裂いた。
粘液状になった黒い血塊が、傷口からどろりと流れ出る。
「〈クイーン・オブ・ハート〉で瀉血する。とりあえず、この場はこれで凌げそうよ」
「ひとりで迎え撃つなんて無茶だよ、アイカ」
岩壁から跳び下りたトヲルは彼女に駆け寄った。
アイカは汚れたボレロを腰に縛りながら言う。
「んなこと言ったって、放ってたら全員毒にやられてたでしょうが」
槍を担いだヴィルジニアも側に降り立った。
視線は倒れたまま動かないマーティに向けられている。
「……やったのか」
「忘れたの? マルガレーテの邪魔はできないのよ。マーティの命が危なかったらあの女が黙ってない」
状況が目に入っているのかいないのか、マルガレーテは変わらず詠唱を続けている。
その傍らでアリスが不安そうにこちらを見つめていた。
「血流を操作して意識を奪ったの?」
アイカが以前やってみせたブラックアウトのことをトヲルは言ったが、彼女は否定する。
「ううん、それはできなかった。毒のせいかな、付着したあたしの血もすぐに変性しちゃうみたいでうまく操れない。あれは落っこちた衝撃で一時的に気を失っただけでしょ、たぶん」
アイカの言葉を裏付けるかのように、岩棚に倒れたマーティが小さく咳込んだ。
意識を取り戻したらしい。
「……この霧は……なるほど、僕の毒を可視化させた訳だね……」
マーティはゆっくりと傷ついた身を起こす。
アイカは霧の一部を硬質化させ、再び無数の針を生み出して彼を狙った。
「……あの毒は厄介ね。死なない程度に攻撃をして足止めするしかない」
「くそ……おれの〈フライングソーサー〉の間合いにまで近づければ身動き取れなくしてやれるんだけどな」
「そうとも……僕の特性は〈毒手〉。僕の周囲にあるありとあらゆるIDを崩壊させる毒を撒き散らす、厄介な、呪われた代物だ」
ふらつきながら立ち上がったマーティはか細い息を長々と吐いた。
「……全く……嫌になるよ。ようやくここまで来たのに、あと少しなのに、余計な邪魔が入るなんてね」
「俺は――」
トヲルが口を開く。
「妹を助けに行かなきゃならない」
マーティが黙って声の方に顔を向けた。
レッドドラゴンに近づいた為だろう、トヲルの端末が不具合を起こしてアバターが表示されなくなっている。
今ようやくトヲルの存在に気がついたらしい。
トヲルは言葉を続けた。
「そのためにここにいる。あんたはさっき全部いらないと言ったが、俺にとっては家族だって、仲間だって、全部大切なものだ。いらないものなんかじゃない」
マーティは何回か咳込んだが、何も言わない。
「だからあんたの邪魔をする。当たり前だろ、でなきゃ大切なものを守ることができないんだ」
「……あなたの、名前は?」
彼はそれだけ尋ねた。
「……トヲル」
「そうか、トヲル。あなたのIDもかなり特殊なようだ。苦労も多かったんじゃないか」
「……」
「それでも、この世界を疑うには至らなかったようだね。運が良かったな」
「世界を疑う……?」
「そうとも。なぜ世界はこうなのか。なぜ僕らはこうなのか。僕は数えきれないほど疑ったんだよ」
マーティは大きく咳ばらいをして、口の中の血を地面に吐き捨てた。
「……その結果、僕は確信した。この世界は間違っている。ヤクモ機関は間違っている。世界は本来のあるべき姿にもう一度立ち戻るべきだ、とね」
「もとよりヤクモ機関は世界をあるべき姿にするために働いているのである」
ゾーイが言うと、マーティは首を振った。
「違う、そうじゃない。僕が目指すのはヤクモ機関はおろか、怪物もIDもSFも特性もない、普通の世界――別世界さ」
「IDが存在しなかった昔は、魂の在り方と肉体はバラバラだったんだぜ。バラバラな心と体がもたらす苦しみを何とかしようとしてIDが生み出されたんだろ。それを無かったことにして何がいいってんだ」
そう言ったヴィルジニアを見据え、マーティはおもむろに黒いロングコートに手をかける。
「……そうかい」
そのままロングコートを脱ぎ捨てた。
彼の周囲で黒く濁っていた紅い霧が、倍近い範囲に広がる。
「……!」
コートの下は上半身裸だ。
しかしその左半分は、どす黒く変色していた。
異形と化していたのはグローヴをしていた左手だけではなかったのだ。
左腕全体が腐った骨のように節くれ立ち、肩口から胸にかけては肉が削ぎ落ちたかのように黒い皮膚や筋が骨に張り付いている。
「……僕のこの姿を見るといい……僕の特性〈毒手〉は、周りだけでなく僕自身をも蝕むんだ。いくらか耐性はあるけど、毒はいずれ必ず僕の命を絶つ。……教えてくれ――」
マーティは低く叫んだ。
「これが僕の魂の在り方なのかッ?」
トヲルは答えることができない。
「この忌まわしい姿が、僕の魂にふさわしい、あるべき姿だと言うのか? この固有IDを得たのはもちろん、僕が七歳の時のチューニングだ。そこのアリスと同じくらい、年端も行かぬ子どもだよ。そんな子どもが何をした? 何の咎があってこんなIDにされなきゃならないんだ」
マーティはふらつく脚で一歩踏み出した。
陽炎のように毒の霧が揺れる。
「あなた達に分かるだろうか? もう取り返しがつかないんだ、この身体は。どれだけ努力しても、どれだけ前向きにとらえても意味はない。この〈毒手〉はただひたすらに周囲と自分を毒で侵し続けるだけだ。頑張っても頑張っても、僕はやがて毒で死ぬ。それがIDというものだ。それは逃れ得ぬさだめのようなもの――そのさだめに、抗うことすら許されないんだよ。人格を失って怪物になっていたほうがマシだった、何度もそう思った。その絶望が、あなた達に分かるだろうか?」
レッドドラゴンの放つ光とアイカの作った霧によって、辺りは黄昏のように赤く染まっていた。
逆光のマーティは、濃い霧の向こうで黒い影となる。
異形の影の両目ばかりが、青く光を放った。
「だから僕は世界を一度壊そうと思ったんだ。何にも縛られることなく、自分の意志で生き方を決められて、努力をすれば報われるような――そんな普通の世界を作るために」
マーティは〈毒手〉の左腕を頭上にもちあげ、何かを投げるかのように振り下ろした。
紅い霧の変色が、塊となってトヲル達目掛けて一気に迫って来る。
「〈ザ・ヴォイド〉!」
トヲルは両手を目の前にかざす。
周囲の紅い霧ごと、毒に侵された霧が消失した。
束の間霧の晴れた空間に、新たな紅い霧が流れ込む。
「……あんたの気持ちは――想像することはできるけど――俺には分からない。結局、僕はあんたじゃない。確かに、俺はこれで運が良かったのかも知れないな」
「……」
マーティの足がつと止まった。
「でもそれがあんたのやることを認める理由にはならない。俺は、妹と再会するために前に進む。その行く手を今ここであんたに破壊される訳にはいかないんだ!」
もし自分がマーティの立場だったら――そう仮定することに、意味はない。
トヲルには生き別れた妹のメイがいて、彼女を捜す旅の途中で大切な仲間と出会えた。
その全てを破壊しようとしているマーティは、トヲルにとって止めなくてはいけない相手なのだ。
「そうだな……他人に分かってもらおうだなんておこがましいことだ。他ならぬ僕自身が全てを否定しているんだからね。僕も前に進むだけなんだ。進む先が違っているから並び立つのではなく、こうして向かい合っているんだろう――敵同士としてね」
そう言ってマーティは左腕をふりかざす。
その左腕の肘の辺りが吹き飛ばされた。
アイカの射出した血液の針が撃ち抜いたのだ。
「……させるか」
地面に落ちた左手を拾おうと、マーティは右手を伸ばす。
その右肘を、さらにアイカが吹き飛ばした。
マーティは地面に転がった自分の両腕を無表情に眺めて言った。
「……固有IDを得た七歳から今に至るまで……僕は絶えず自分の〈毒手〉の毒に侵され続けていた。お陰で僕は痛みや苦しみに対して極めて鈍感になった。長年に渡って苛まれ続けたためにもう頭がそれらを認知できないんだね。だから肉体的には多少の無理がきく……僕が人外種に張り合えるとしたらそれぐらいだ」
マーティは膝を折り、転がった左腕に顔を近付けて口に咥えた。
彼の顎から首にかけて毒の腐食を受ける。
「……あのやろう……どこまで」
ヴィルジニアがうめいた。
マーティの端正な顔立ちが、毒に侵されて崩れていく。
片膝立ちになって身を起こしたマーティだったが、今度はその膝をアイカの針が撃ち抜く。
彼は左腕を咥えたままうつ伏せに倒れ伏した。
「……もう諦めろ!」
マーティはしかし、うつ伏せの状態から、残った片脚と肘から上を使ってじりじり這いずってトヲル達へ近付いていく。
絶対に諦めない。
それでも爛々と青く光る両目が、そう訴えかけて来るかのようだった。
術式が完成するまで、マーティの命を奪えない。
アイカは血の針先を彼に向けたまま、それ以上射撃できずにいる。
マーティ自身の身体への毒の侵食が進んだためだろう、紅い霧が毒されていく範囲はさらに広がってトヲル達に迫る。
後ずさりして距離を保とうにも、穴の広さに限りはある。
対象の形がはっきりしていれば〈ザ・ヴォイド〉で消失させることはできる。しかし空間が毒されていくこの場合、消失の能力でどこまで防ぎきれるか分からない。
それでもここで毒を受けてしまったら、復活したレッドドラゴンとやり合う所の話ではなくなる。
やれるだけやるしかない。
トヲルは両手をかざした。
ぱたん。
その小さな音は、竪穴内に響き渡る轟音のなかでもいやにはっきりと耳に届いた。
視線を向ければ、マルガレーテのたたずむ姿がある。
彼女の目の前に広げられて浮いていた分厚い書物。
その書物が閉じられた音だった。
先ほどまで高速で動いていたマルガレーテの唇が止まっている。
詠唱が――。
「終わった……?」
マルガレーテは胸元から細長いペンを取り出してマーティに向けた。
「……覚悟はできたか」
マーティは咥えていた左腕を放し、かすれた声で応じる。
「……十年以上……前からね。間に合ったようで……何よりだ」
力尽きたように、彼は仰向けに倒れ込んだ。
「……ここまでのようだね。よろしく頼む」
「いいだろう。発現せよ。術式――」
ペンを向けたマルガレーテが、静かに告げる。
「ヘックス=シフト」
マーティの全身を、六角形の強い光が一瞬、包み込んだ。
彼の瞳から青い光が失われ、暗い空洞と化す。
ずしん、と洞穴全体が揺れたように感じた。
それはひと際大きくなった、レッドドラゴンの内から響く脈動の音だった。
竪穴全体を震わせる脈動の速度が上がる。
紅炎をまとう赤い球体の光が強くなった。
レッドドラゴンが、復活する。
つづく
次回「第43話 赤竜の攻撃を受けた俺が、消失の手を相手にかざす話。」
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