第九話 お風呂
起き上がれるようになって、やっとトイレで用が足せるようになった。
まずは車椅子で移動。
この時車椅子の制御は一通り覚えたので、自分は今でも直感的に操作が可能だと思う。
多分免許をとってから二十年は完全ペーパーの自動車の運転よりはずっとマシなはず。
最初は看護師を呼んで車椅子を押してもらったが、その後一人で、そして車椅子もなくなった。
この後歩行器も使ったっけ。
最後はそれもなくなった。
茅ヶ崎さんがやってきて、横になっている自分が右側を下にして寝ているのを見て驚いたことがあった。
もう姿勢を固定する必要もない。
「右側でも寝られるようになったんですね」
と言っていたことからして、自分の左向き寝はそれだけ印象深かったらしい。
この時ちょっとコルセットの調整をと頼んで、彼女は自分に抱きついて両手を背中に回してまるで抱擁するような姿勢をとった。
これがちょっとカメラを引き気味にしたところを想像すると、中々ドキドキするシチュエーションだったので年甲斐もなく妙な想像をしたのを覚えている。
当然あったのはそんな勝手な妄想だけで、実際何があるわけでもないのだが。
素直に背中を向けさせればよかったのでは? と今なら思う。
それだけ彼女は生真面目で、思った以上に不器用なんだろうなと思った。
二度目の来院時彼女の姿は見えなかったので、結局彼女と最後に会ったのはいつの話だったかもう忘れてしまったが、退院時の当番が彼女だったらしく、退院おめでとうございますという文字を見たのが最後の関わりだった。
元気でやっていればいいなと思いつつ、今でもときどきあの疲れて声を作れなくなった明け方の不機嫌な猫の鳴き声を思い出してしまう。
なお褥瘡痕にはガーゼと絆創膏がはられていたが、それも自然と治癒。
ガーゼと絆創膏だけが忘れられて肌に貼りついていたのだが、それを村上さん(仮名)が剥がした後消毒してくれた。
村上さんは計量の時即座にストップをかけてくれたり、最初に自分に尿瓶を使うように言った人だったため地味に出番は多かった。
他に寝たきりでも食べやすいように団子にしていたご飯を、普通のご飯にしてほしいと要望した自分の伝言を給食担当に伝えてくれたが、いつまで経ってもそれが変わらなかった。
そのためもう一度「これ前も言ったんですけど、もう普通のご飯にするようにお願いします」と言ったら、「確かに以前私も聞きました」と覚えていてくれた。
今度は大丈夫と直接伝えてくれたおかげで、自分は普通のお米を食べられるようになった。
そして自然と薄味にも慣れて次第に完食するように。
ちょっと余談になるが、この頃血圧はかなり低く、上が120台で収まっていた。
しかし鬼のように多い米を食べきるために母親にふりかけを買ってきてもらい、さらに家にあったお菓子を持ってきてもらうようになったことで、この数字は一気に跳ね上がることになった。
上が150を越えたのを見た村上さんは驚いていたが、自分にとってはそれが今までの日常だったため、ついいつも通りと言ってしまった。
その自分の発言に彼女が不審がるのも当然な話。
さすがに自分で勝手に塩分を足していたからだなんて言えず、適当にごまかすのが大変だったことは覚えている。
この時の血圧の変化の意味をもっと重く受け止めていれば、後の脳梗塞の悲劇は防げていたのかもしれない……とは全てが起こってからの無意味な後悔ではある。
もう痛みに苦しむこともなく、自由に寝返りが打てるようになった。
コルセットは固くて重かったが、尿道カテーテルにつけられた管とは比較にならない。
そして徐々に動けるようになった自分は、二つの問題に悩まされた。
一つは便秘。
これを相談した時若い兄ちゃん医師は「入院患者にはよくある」と言っていた。
あまりにも硬すぎるそれは、出そうと思っても出てこない。
岩のような硬度でお尻に引っかかって、気張るのをやめるとひっこんでしまうという代物だった。
何度もトイレに運ばれてはがんばって諦めるを繰り返していた自分は、ついに下剤のお世話になることにした。
この時飲んだのは、最近ではすっかり定番になりつつある酸化マグネシウムというやつだった。
それをやたら慎重に一錠くれたのは、荒川さん(もちろん仮名)という人だった。
彼女はちょっとばかり恰幅のいい人だった。
この人も注射はうまい。
彼女は脱いだ自分の胸元を見て「肌弱そう」と言ったのだが、確かにちょっと肌が弱い自分はその部分がかなり赤黒く荒れていた。
実は最近意識していなかったのだが、痩せたことでそのシミは大分落ちてしまっていた。
あれはなんだったのだろう。
まあ今も肌荒れがないことはないのだが。
その時の反応が妙に可愛かったので、自分は姫屋さんと茅ヶ崎さん、そして彼女をこの病院の三大美女と勝手に命名していた。
当然自分の中だけで。
まあそれはともかく薬を飲んだ自分は、次の日にはあれだけ硬かった岩がぬるっと押し出されてやっと便秘から解放された。
あれは中々爽快な経験だった。
なんらかの薬の副作用で便が固くなることはその後も多く、その度にこの薬は出番があった。
気づいてすぐ飲んでもちょっと効果が出るまで遅いのが玉に瑕だが、薬価も安く効果も抜群なので、機会があったら怖がらずに使用してみてほしい。
こんなタイミングで出てきた荒川さんがちょっと不憫だが、彼女がうまく出てくるタイミングが他になかったので。
申し訳ない。
そしてもう一つは風呂だった。
既に入院から二週間以上、自分は風呂に入っていない。
手術で背中を切ったのだから当たり前なのだが。
実は自分、とんでもない毛量でいつも髪が伸びて伸びて仕方ない。
大体理容室で髪を切って二週間でもううんざりしてくる自分は、その後の二週間はずっと「あー髪切りたい、鬱陶しい」と延々地獄の日々を送り四週間で我慢の限界を訴え、ちょうど二十八日目で散髪に行っていた。
そのせいで一年に十三回理容室を利用する男だった自分は、三月の終わり頃に痛みをこらえて店を利用していた。
しかしもう入院から数えてもとっくに二週間は経過、それ以前も合わせるとそれ以上の日数が経っていて、自分の髪はぼさぼさだった。
それが風呂、シャワーも同じだけ使っていないということがどれほどの地獄か、想像してみて欲しい。
それも寝たきりの時はまだよかったのだが、起き上がれるようになると途端に苦痛として認識されだす。
深夜消灯後に自分はお湯が使える蛇口まで出かけ、そのお湯でタオルを洗って体を拭いたりした。
ちょっと前から大分臭っていたのが自分でも気になっていたのだが、これのおかげでデリケートゾーンもある程度臭いと不快感は解消された。
しかし頭ばかりはどうにもならない。
いよいよ苦しみだした自分は、ちょうど頭を洗うのによさそうな蛇口を見つけて、今度あれを使ってやろうかと画策していたが、結局それは果たせなかった。
後でそれを正直に姫屋さんに言うと「水浸しになって後の掃除が大変だからやめて欲しい」と正直な感想を言われたが、本当にその時はかなり追い込まれていた。
そして窮状を訴えると姫屋さんは「手術しているから(しょうがない)」とあまり取り合ってくれず、自分は松本さん(当然仮名)という年かさのとかいうとぶっ飛ばされそうだが、以前コルセット採寸の時に手を握ってくれた看護師さんに縋った。
彼女は頭部のシャワーだけならと予約を取ってくれることを約束してくれたが、それがいつになるのか、まるで話が進まない。
焦れて会う度にそれを持ち出す自分に苦笑いしながら、彼女は「なんでそんなに必死なの」と言ったが、本当に今すぐでもして欲しいくらいなのだ。
彼女は意外といい加減な人だった。
そしてやーっと頭だけシャワーを浴びられるということになってシャワー室に運ばれた自分は、新人一年目の浜田さんと、確かその時は荒川さん二人のコンビに介助してもらって洗髪してもらった。
浜田さんは態度が初々しく、そしてたどたどしい。
まさに擦れていない一年目の雰囲気そのままの人だった。
多分年齢的には自分の娘でも通用する歳。
既にあれから五年は経っているので、今頃随分擦れて人も変わったと思うが、看護師も最初はあんなにプレーンなものなんだなとちょっと驚いたくらいだった。
それに比べると他の看護師はみんな人あしらいが手慣れている。
仕事を続けるためにそうならざるを得ないのはわかるが。
彼女は優しくシャンプーをしてくれたが、しかしそれで自分が満足したのは、やはり一時的なことだった。
風呂に入りたい!
この欲求は日増しに大きくなるばかりだった。
ようやく入れたのは抜糸後のことなので、本当に退院直前。
しかも血が止まらないとかで風呂に入れるようになるまで一日遅れて泣きを見た。
こわごわ行った個室風呂は、シャワーだけではあったがそれはそれは爽快なものだった。
やっと自分も少しだけ真人間に戻れた出来事だった。