六話 ままぁと一緒
夏の日差しがカーテンの隙間から差し込み、厳太郎の瞼を刺激した。
冷房は二十八度の設定。暑苦しさを覚えながら、厳太郎はころん、と寝返りを打つ。若干成長したとはいえまだ足元もおぼつかず、上手く自分で起き上がることはできない。もそもそと体を動かしていると、指先が柔らかいものに触れた。
「……あぁん。厳ちゃん。もうおっぱいの時間?」
ままぁのおっぱいだった。
艶めかしい声が聞こえ、厳太郎はすぐさま腕をひっこめた。
さらりと流れる髪は、真新しいシーツよりも白く透き通っている。とろん、とした眠たそうな瞳は、うっすらと開き厳太郎を見据えていた。
全裸ではいろいろとまずいので厳太郎のシャツを貸してやった。大きめのシャツはままぁの体を覆い隠すほどだったが、下着もなにもつけていないので正直目のやり場に困る。
速くなる鼓動を必死に抑えていると、やさしく抱きかかえられた。
「おはよう。厳ちゃん」
夏の暑さとは別種の暖かさで、厳太郎は包み込まれる。
昨日。人生で初めて大気圏突入をした。
あの状況でもままぁは突入位置をしっかりと計算していたらしく、厳太郎の家のすぐ近くのひと気のない山に下りることができた。昼間だったこともあり、住民に気が付かれやしないかとひやひやしたが特に騒ぎにはならなかった。ただの流れ星だと思ったのだろう。
とはいえ、家まで歩いて帰るにも全裸の少女と赤ん坊は非常に目立ってしまう。深夜まで山に隠れ潜み、周囲に気を付け帰宅した。
ままぁが取っておいてくれた厳太郎の制服の中には、自宅のカギが入っておりなんとか家に入ることはできた。ままぁは普通に家に上がり込み「ふうぅ。疲れたぁ。厳ちゃん先にお風呂入っちゃう?」などと、まるで自宅のようにくつろぎ始めてしまった。
ままぁがテレビを点ける。
朝の情報番組では、有識者が必死に異星人の危険を訴えていた。異星人の対策をする組織を作るべきだ! と鼻息を荒くして訴える。過去、地球で起こった未解決事件のほとんどは異星人であると、興奮した様子で語っている。
「あらあらまぁまぁ。怖いわね」
おい、そこの宇宙人! と、突っ込みたかったが、今は言葉をしゃべれない。
でも実際のところ、赤ん坊の状態で一人にされても、何もできないので誰かがいてくれないと生活にも支障をきたす。実の母親もしばらくは帰ってこないだろうから、ままぁがいなければ死活問題だ。なにより、この異常な事態が厳太郎の常識をマヒさせていた。
ままぁは小さく伸びをすると、素早くベッドから降りカーテンを開けた。
「ううーん。いい天気。おっぱい飲んだら公園をお散歩しようか?」
ヒマワリが咲いたような笑顔で、厳太郎に向き直る。
「っと、その前におじいちゃんに挨拶しておこうね」
「(おじいちゃんって……)」
厳太郎の父親は自分で、つまり厳太郎の父親はおじいちゃんで……うん。よく分からん。
困惑する厳太郎をひょいっと抱きかかえると、仏壇の前で静かに正座をする。ままぁは棒でおりんを鳴らすと、瞳を閉じて合掌をした。
父親は元刑事だ。厳太郎が物心つく前に殉職したらしい。
母親によると父親は意にそぐわないことがあると上の命令を無視し、自分の判断で動くことがあったようだ。何度も上司とは対立したが、未解決の事件の犯人を捕まえることもあったという。社会人としては問題ありだが、優秀な刑事ではあったようだ。
が、最後には命令を無視した上で、散らさなくても良い命を失ってしまった。
母親の胸中はどのようなものだったのだろう。そのせいか、母親は厳太郎に規律を重んじることを強制した。父親のようにならないために。
厳太郎の母親――神宮寺律子も警察官だ。現在は海外におり『地球外生命体に対する危機管理』の任務に就いている。
元々、厳太郎の父親と同じ刑事だったが、厳太郎の中学への進学を見届けた後、急遽配属が決まったらしい。SFのような話ではあるが、ようやく人類が地球外にも目を向けるほどに化学力が向上したのだと誇らしくなった。
それに律子の働く部署は、少数精鋭の非常に優秀な人材で構成されていると聞く。
律子は数か月に一度帰宅すればいい方だ。夫が殉職したことで、何か思うところがあるのだろう。厳太郎はそのことについては何の不満もなかった。尊敬できる母親だ。
おりんの音色が止んだ頃。ままぁは厳太郎を抱きかかえたまま、リビングへと歩んでいく。ソファに腰を下ろすと、自分のシャツをまくり上げた。
「おっぱいのみまちょうねー」
「(ちょ、ちょっと待った!)」
厳太郎はテレパシーでつっこむ。ままぁが不思議そうに小首を傾げ、まじまじと厳太郎を見つめる。そんなままぁを見るまいと、厳太郎は視線を反対側に向けていた。
ままぁの着ているものは、厳太郎のシャツ一枚だけなのだ。つまりシャツをめくりあげてしまえば、下着をつけていない下半身は丸見えだ。
授乳はされなければならない。そうしなければ、元の年齢までは成長できないからだ。おっぱいだけなら、百歩譲って良しとしよう。でも、下半身は駄目だ。絶対だめだ。
この宇宙人は羞恥心というものはないのだろうか。
「あっ! もしかしてちっちの方かな?」
「(もう、いやだぁ……)」
実は、昨晩ままぁが寝た後、一時間かけてトイレまで這いずり用を足した。便器につかまり、足を掛け何とか済ませることができた。
「(俺はおもらしなどしていない。それよりも、その恰好……何とかならないのか?)」
ままぁは目をぱちくりとすると、自分の体を触る。何かを思いついたように笑みを浮かべると厳太郎に顔を近づけた。
「あー……もしかして、恥ずかしい? ままぁの裸見て恥ずかしいのかな?」
うぐぐ、と厳太郎が唸る。
「(お前……自分は裸見られて恥ずかしくないのか?)」
「えー。だって自分の子供に裸見られて恥ずかしがる母親なんていないよ。でも、厳ちゃんを喰っているときは、本当に恥ずかしかったんだよ? だって、初めてだったから……」
あの時のままぁのどこに恥ずかしさがあったというのか……記憶をたどってみるも、恐怖の感情しか思い出せないのでやめておいた。
「まあ、でも服がないというのも不便だよね。これからは地球で暮らすわけだし」
ままぁは一つ頷くと厳太郎をソファに置いて、ゆっくりと立ち上がった。
「お洋服買ってこよう! ついでに食材とか、厳ちゃんのおむつとかも欲しいよね。うわぁ……地球で初めてのショッピング! なんだかわくわくしちゃう!」
ままぁは頬を手で覆いながら、にやにやと笑いっぱなしだ。
「(おむつはいい。服と食材は必要だ。そういえば、お前日本のお金は持っているのか?)」
跳ねるように喜んでいたままぁの表情は、次第に悲しみに変わっていく。ぎりぎり、と油の切れたロボットのように厳太郎に顔を向けた。
「お金……どうしよう。持ってないよぅ」
ままぁの目には涙が浮かぶ。
「(仕方がない……)」
厳太郎は、よじよじと自分のサイフを手に取り、そこから一万円札を取り出してままぁに手渡した。
「(これだけあれば、服としばらくの間の食材は購入できるはずだ。あまり無駄遣いはするんじゃないぞ)」
ままぁは手に取った一万円をまじまじと見つめた。
「うわぁっ! いっちまんえーんっ! 凄い。厳ちゃんお金持ちぃっ!」
厳太郎は学生のため、律子からは毎月生活費が振り込まれている。
悲壮感に暮れていたままぁの表情が、ぱぁっと明るくなる。本当に感情の起伏が激しい宇宙人だ。
「それじゃ、お買い物してくるねっ! 厳ちゃんお留守番できる?」
「(大丈夫だ……それより、お前買い物はできるのか?)」
ままぁは頬を膨らますと、腰に手をあてた。
「ひどいなぁ。子供じゃないんだよ? それに、日本のことはしっかりと勉強しているんだから大丈夫。ままぁに抜かりはないよ!」
そう言うと、胸元でこぶしを握る。表情は自信満々だ。
「(それならいいが……それよりも、その恰好で出かけるなよ。大きいかもしれないけど、俺のズボンとかも履いていってくれ)」
「厳ちゃんの服、おっきくて歩きにくいんだよなぁ」
ままぁはいそいそと厳太郎のズボンを履いている。とはいえ、心配だ。
そんな厳太郎の思いをよそに、ままぁはうきうきとした様子で部屋を出ていこうとする。
「あっ。そうだ。厳ちゃん」
ふと、ままぁが厳太郎に振り向いた。
「おばあちゃん……っていつ帰ってくるのかな?」
おばあちゃん……律子のことだ。一瞬、何を言っているんだと感じてしまう。
「(俺の母親はしばらく帰ってこないと思う。連絡もないしな)」
と、スマホの画面を確認する。
律子は帰ってくる前には、メールで連絡が入る。その連絡が未だ無いということは、まだしばらくは帰ってこないだろう。
「そう……厳ちゃんの家に上がり込んでいるし……挨拶はしておきたかったんだけどね」
図々しいだけだと思ってはいたが、それなりに考えてはいるようだ。
――本当は、直ぐに律子には連絡を取るつもりだった。『地球外生命体の危機管理』に長けている律子はこの件に関しては専門のはずだ。
でも、こんな少女を家に上がり込ませて、世話をしてもらっていることが知られると思うと……二人を会わせることは勘弁願いたかった。それに、現在厳太郎は赤ん坊だ。
……そして、自分のせいで母親を煩わせたくは無かった。自分で何とかしないと。
「まあ、しょうがないよね。それじゃ行ってきます」
ままぁは厳太郎に手を振りながら、部屋を出ていった。
厳太郎は大きくため息をついた。
……まぁ、あと何回か授乳すればもとの年齢に戻れるとままぁは言っていた。
そうなったらままぁにはこの家を出て行ってもらおう。少し罪悪感は残るが仕方ない。
けたたましい蝉の鳴き声に、じりじりと差し込む夏の日差し。夏休みということもあり、外では子供たちのはしゃぎまわる声が届いてくる。
ままぁが出ていった部屋は厳太郎には少し寂しげに感じていた。