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二話 忍び寄る狂気と欲望

「よし、そろそろ行くか」


 鏡の前で厳太郎は制服の襟を正し、気合いを入れていた。


 時刻は十九時を回ったところだ。夏とはいえ、このくらいの時間になると西の空には太陽が隠れ始め、徐々に暗くなってくる頃合いだ。八月に入り、猛暑日も多くなってきたが、夜になれば幾分か暑さも和らぐ。

 厳太郎は夏休みに入ってからというもの、朝は恒例の十キロマラソン。昼間は宿題や、二学期の予習。夜になれば、繁華街で堅岩高校の生徒が風紀を乱していないかの見回り。たまにはゆっくりしたらいい、という凜華の言葉を意に介さず、厳太郎は日々のルーチンワークをこなしていた。


 家中のすべての鍵が閉まっていることを確認した厳太郎は、毎日しっかりと手入れをしている学校指定の靴に履き替えた。


「それじゃ、行ってきます」


 電気を消し、真っ暗になった部屋からは誰の返事も返ってこなかった。







 日は西の空に完全に沈んでいた。


 厳太郎が歩いているこの場所は、この地域唯一の繁華街だ。明日からはお盆の時期に入るため、会社帰りの社会人もほろ酔い気分で辺りを散策していた。


 人の多さからなのか、時期柄なのか、普段よりもじめっとした空気の中、厳太郎は堅岩高校の生徒が風紀を乱していないか周囲に目を光らせていた。


 厳太郎はいらいらしていた。


 今日だけで、十人ほどの生徒がこの繁華街で遊び歩いていたのだ。昼間にこの場所で遊んでいるのは構わない。しかし、繁華街での夜間徘徊は校則で禁止されている。厳太郎は風紀委員として、学校からある程度の時間までは夜間の外出を許可されている。


「まったく……なぜ何度言っても風紀を乱すのだ。学生の本文は勉学であるというのに」


 ぶつぶつと恨み言を漏らし、辺りを睨みつける厳太郎に、周囲の人は距離を取る。

 人が離れていく中、見覚えのある人物が厳太郎の視界の隅に映った。


「あいつら……」


 間違いない。堅岩高校の生徒だ。三人ほどの男子が、お互いじゃれ合いながら厳太郎の方に向かって歩いてきた。


 厳太郎は眉間に寄ったしわを一層深く寄せ、三人の生徒へと歩んでいった。


 厳太郎に気が付いた三人は、緩んでいた表情を強張らせるとお互いの顔を見合わせた。


「お……おお。厳太郎。久しぶり」


 そのうち、一人が無理やり笑顔を作り厳太郎に手を振った。


「何をしているんだ。もう二十一時を回っている。早く帰宅するんだ」


 厳太郎の表情が一層険しくなる。この三人は、元「風紀委員」だ。


 風紀委員を辞めたとはいえ、同じ志で活動していたのだ。その仲間が風紀を乱しているとあっては、厳太郎の胸中も穏やかではなかった。


「い、いやぁ……今日は見逃してよ。これから合コンなんだ。来年からは受験勉強もしなくちゃだし、夏休みなんだからさ……別にいいじゃん。少しくらいハメ外したって……さ」


 その言葉に、厳太郎の握ったこぶしに一層力が入る。


「校則は校則だ。このまま俺の言うことを聞かないのなら、学校に報告するまでだ」


 未だヘラヘラと取り繕うその顔を殴ってやりたい気分だ。ぎりり、と奥歯の擦れる音が脳内で響き渡る。


「……だから……お前らは駄目なんだ」


 そうつぶやいた瞬間、三人の表情が固まった。そのうちの一人の目が鋭く厳太郎を睨む。


「もういい。このことは学校に報告しておく」


 厳太郎はそう言い捨て、立ち去ろうとする。


「ちょっと、待てよ」


 厳太郎を睨んでいた生徒が、怒気を込めた言葉を投げかける。振り向く間もなく、厳太郎は制服の襟首を掴まれてしまい、そのまま壁際にまで押し込まれてしまった。


「……ぐっ」


 厳太郎は壁に背中を打ち付け、一瞬息が詰まる。


「お前さぁ……ふざけんなよ」


 言葉の端は震え、強い怒りが感じられた。そんな感情にも厳太郎は屈しない。引きはがそうと相手の腕を掴んだ。


「暴力は停学の対象行為だ」


 その厳太郎の言葉にも相手は身じろぎもせず、さらに襟を掴む手に力を込める。


「お。おい! まずいって!」


 他の二人は周りをきょろきょろと見渡し、慌てた様子だ。道を行く人たちも巻き込まれては構わないと言った様子で、こちらを見ようともしない。


「厳太郎。みんななんて言ってるか知ってるか? 学校に通いにくくなったってさ。『早朝風紀』? なんだよあれ。ただ、お前の我を通したいだけじゃねぇか」


「風紀を乱すお前が言うな……! 俺はただ、学校のために、皆のためにと……」


「それがうざったいんだよ! お前の考えを押し付けるんじゃねえって!」


「う……ぐぁ……」


 首を絞めあげる腕に、さらに力が込められる。息ができない。


 あまりに強く絞めすぎたことに気が付いたのか、相手の腕の力が急に抜けた。厳太郎は足から地面に崩れ落ちると、激しく咳き込む。


「ああー……! まじ無理だわこいつ。正義のヒーロー気取ってるつもりかよ。クソが」


 そう言うと、壁を力の限り蹴りつける。


「……風紀を乱すな……家に帰れ……」


 厳太郎は息も絶え絶えに、それだけを言葉にした。


「言われなくたって帰るよ……くそ! せっかくいい気分だったの台無しだ」


 そう吐き捨てると、地面に這いつくばった厳太郎を尻目に、三人は足早に去っていった。

 繁華街の喧騒が厳太郎の耳に届いてくる。湿度の高い空気とは裏腹に、地面からはひやりとした冷たさが厳太郎の体にしみこんできた。


「げほっ……」


 絞められた首に痛みが走る。足に力を入れ立ち上がる。


「さて……」


 いつもと変わらない。

 制服の汚れを払い、スマホの時計を確認した。


「もう少し見回りを続けるか」


 厳太郎が、ぽつりとそう漏らしたとき、手の中のスマホが震えた。画面に目を向けると一通のメールが届いていた。


「……母さん?」


『そっちは変わりない?』


 無機質なスマホの画面には、短くそう表示されていた。

 厳太郎はまだ痛みの残る首をさすりながらいつもと同じ文面を打ち込んだ。


『変わりないよ。仕事お疲れさま』


 メールを送信し、スマホを制服の内ポケットにしまう。

 繁華街の喧騒は収まる気配がない。その声が厳太郎にはやけに遠く聞こえる。


 その日。厳太郎のスマホには母親からの返信は無かった。







「ちょっと遅くなってしまったな」


 厳太郎はそう、ぽつりとつぶやく。


 元『風紀委員』の仲間たちとのいざこざから約一時間。厳太郎はあらかた繁華街の見回りを終えていた。時間は二十二時を回っている。繁華街はまだ眠ることは無さそうだ。


 明日も早いのだ。厳太郎が自分に課したルーチンワーク。よほどのことがない限り、破られることはない自分を律するルール。

 少し疲れてしまったかもしれない。頭の芯にもやがかかったような感覚だ。歩くたびにずん、と体全体にのしかかってくるような重み。


 それでも厳太郎は背筋をしっかりと伸ばし、疲れた様子をみじんも感じさせず、大通りから出て裏路地へと入っていった。

 大通りとは違い、この場所はほとんど人とすれ違うことはない。


 いかがわしい店や、いったいなにを売っているのか分からない店もある。ここでは学生を見かけたことはないが、一応見て回る。ここの見回りを終えれば、今日一日の仕事は終了だ。厳太郎は深呼吸をして気合いを入れる。


 よどんだ空気とかび臭い匂い。月の明かりしか届かない薄暗い道。他の道よりも緊張しながら歩いている厳太郎の耳に『その声』は聞こえてきた。


 ――……あぁ……う……。


 くぐもった声だ。悲しみなのか怒りなのか、辛いのか。感情が上手く読み取れない声だった。夏だというのに、全身が寒気に震える。


「どうした……? 誰かいるのか?」


 厳太郎は乾ききった喉から、無理やり声を発した。思ったよりも小さな声ではあったが、しんとした裏通りにしっかりと響き渡った。


 ――ああ……ああぁ……ぁぁあん……。


 どこか嬌声にも似た声は、厳太郎の足を震え上がらせるには十分だった。


 何かがいる。


 そう思った瞬間、厳太郎の足は大通りの方へ向け走り出した。恐怖の声も出ないほどだ。息が詰まりそうな空気の中、人を求め厳太郎は足を動かそうとした。


「みツケた。ワタ、しの……オネぎ……ガイ。ワタし」


 その声は耳元でささやかれたようにはっきりと聞こえてきた。振り向き、走り始めようとしたとき、厳太郎の目線の下に人が立ちすくんでいた。


 一見すると少女のようだった。


 頭の位置は、厳太郎の胸のあたりくらいだ。髪の毛は透き通る程の真っ白な色と、すすけたような黒い場所があった。黒い部分は汚れだろうか。べたり、と張り付いた水分を含んだ埃は、あたかも聖なるものを汚しているように見えた。


「……う、あぁ」


 厳太郎は声を絞り出した。


 目の前にいる存在は普通ではない。無理やりでも声を出し、自分という存在を認識しなければ闇に喰われてしまいそうだった。


 厳太郎の消え入りそうな声を聞いた少女の耳が、ぴくりと小さく動いた。もう二度ほど少女の耳が震えると、下を向いていた少女の顔が無機質な動きで厳太郎を見上げた。


 色がない。というのが適切なのかもしれない。少女の瞳は、視点は合ってないようにも思えた。しかし、厳太郎を見つめている。


「……ひ」


 無意識に声が出る。少女の腕が厳太郎の顔を包み込むように振り上げられる。ひたひた、と厳太郎に歩み寄ってきた。

 体が恐怖で固まったまま、一歩も動けない厳太郎の頬に、少女の指先が触れた。


「うっ……ああぁ……わあああぁぁ!」


 氷のように冷たかった少女の指先が、恐怖に支配されていた厳太郎の頭を覚醒させた

 本能的に危機感を感じた厳太郎は、少女に背を向け、大通りへと全力で――。


「おねガイ……わた、シ、が……ワタしの……と?」


 頭では逃げ出そうと思っていても、体が縛り付けられたように動かなかった。


「う、ぐ」


 少女の両手が、厳太郎の後頭部を掴んでいたのだ。すさまじい力で引っ張られる。ミシ、と骨のきしむ音が響く。厳太郎は地面に仰向けに倒されてしまった。


「……う……ぁ」


 背中の痛みに喘いでいると、厳太郎を地面に押し付けたまま少女はその身を空中に翻す。そのまま、厳太郎の腰に跨った。そこで初めて少女の全身を見ることができた。


 少女の身に着けている服は元々、ワンピースのようなものだったのだろうか? あちこちが破れ、その下の肌が見え隠れしていた。スカートの部分はわき腹まで大きく裂け、肉付きの良い太ももがあらわになっている。

 少女は熱を持ったように頬を赤く染め、その瞳は溶け出してしまいそうなほど涙で濡れていた。ほんの少しだけ開かれた口からは、わずかに吐息が漏れている。


 厳太郎に押し付けられた少女の腰は、わずかに残った服の上からでも、しっとりと汗ばんでいるのが分かった。邪な感情が沸き起こるような状況であったが、厳太郎の胸中を支配するのは恐怖。ただ、訳の分からない恐怖だった。


「んむぁ……んんぁ」


 少女がまるで人の声ではないような音を発する。


 かぱぁ、と音が聞こえてくるくらいに少女の口が大きく開いた。子供が、自分の口よりも大きなパンをほおばるように。


「はむ」


 少女が首筋に噛みついた。その行為とは裏腹に、可愛らしい吐息が少女から漏れる。


 何が起こっている何が起こっている何が起こっている何が――。


 脳内からは恐怖が掻き消え、疑問だけが駆け巡る。痛みもなく、ただ疑問だけ。

 視界からは光が消え去り、ただ遠くから人々の声が小さく聞こえてくるだけだった。

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